2022年07月10日「主は誰のために」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13節 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
14節 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
15節 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
16節 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。
17節 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
18節 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。ローマの信徒への手紙 14章13節~18節

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説教の要約「主は誰のために」ローマ書14:13~18

ローマの教会で問題になった論争は、いわゆる強い人と呼ばれていた人たちと、弱い人と呼ばれていた人たちとの間に起こっていて、強い人たちの方が多数派で、弱い人たちの方が少数派であったと思われます。それゆえ、ここからパウロは、強い人の立場に立って、弱い人を傷つけないための配慮をするように勧告しているのです。そしてここでは、「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています(14節)」、とありますように、パウロ自身も強い人の立場を肯定し、自分もそこに立っていることを認めています。そればかりか、「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです(14節)」、これは、弱い人の立場を否定的に示したものです。「それ自体で汚れたものは何もない」はずなのに、そこに人間の余計な評価が加わって、「その人にだけ汚れたもの」に変わってしまう、ということだからです。ですから、本来正しいのは強い人の立場であって、弱い人の立場ではないのです。(マルコ7:14、15、Ⅰテモテ4:3、4参照)

ところが、パウロは一変して弱い人の片棒を担ぎます。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。(15節)」、ここで、「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば」、とあります「心を痛める兄弟」というのは、弱い人の方です。パウロたち強い人が、それ自体で汚れたものは何もないと確信して何でも自由に食べる、その行為自体は悪くはないのです。しかし、その行為によって、「兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません」、とこのように、今度は強い人たちが警告されるのです。

つまり、大切なのは、愛に従って歩んでいるのか、いないのか、これなのです。強い人たちが、自らの信仰に立って自由を謳歌することは正しいのです。しかし、そこに愛が欠けているのなら、それは一変して過ちに変わるわけなのです。つまり、私たちキリスト者の交わりにおきまして、最も大切なことは、論理的に、或いは信仰的に正しいとか、正しくないとかではなくて、そこに愛があるのかないのか、これなのです(Ⅰコリ13:1~3参照)。そして、その大切な理由が続けて示されます「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです(15節)」、これです。弱い人たちは、キリストが十字架で全て取り去ってくださったはずの慣習やしがらみに縛られ、キリストが勝ち取ってくださった大切な自由を自ら拒否してしまっていて、それは愚かな行為です。しかし、愚かであってもキリスト者は、キリスト者なのです。その愚かなキリスト者にもキリストの十字架の値打ちがあるからです。

 パウロは、これらをまとめて、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。(17、18節)」、と結論を出します。

 では、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びによってキリストに仕える人、そして、神に喜ばれ、人々に信頼される、これはどんな人でしょうか。

このことについて2つ確認いたしましょう。

 一つ目、それは、ここにおられる全ての人であります。全ての者が、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びによってキリストに仕えている、この祝福に漏れる人は一人もいない、ということです。私たちを教会に招いて下さったのは、主なる神様です。一人一人この教会の門をくぐったきっかけや動機は違うでしょう。しかし、主なる神様があなたを必要としているから、この群れに加えてくださったことには何ら変わりがありません。私たち信仰者にとって偶然は一つもありません。ことさら、キリストの教会にこの私が招かれている、そこには神様の大いなるご計画による導きがあるはずなのです。しかも、聖霊によって与えられる義と平和と喜びとありますように、義と平和と喜びというのは、恵みによって一方的に与えられるものであって、私たちはそれを受け取るだけで十分なのです。主ご自身が教会に招いてくださった以上、この賜物が与えられない者が存在するでしょうか。いいえ、むしろ義と平和と喜びが与えられるために私たちは、教会に招かれているのです。そうである以上、この祝福に漏れる者は一人もいないのです。教会は天国のあらゆる祝福に満たされる場所であり、この世の只中にある真の休息地に他ならないのです。

 二つ目、さらに言えば、それは他ならぬあなただ、ということです。聖霊によって与えられる義と平和と喜びによってキリストに仕える人、神に喜ばれ、人々に信頼される、それはあなたなのです。

 本日は、「主は誰のために」という説教題が与えられました。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです(15節)」、これが本日の御言葉の中心にあるからです。ここでは、教会で弱い者と見なされ、本来捨て去らねばならないはずの慣習に縛られ、それが信仰の足枷にもなっていたキリスト者が、その兄弟と呼ばれています。つまり、その兄弟は、他の信徒たちに忍耐をもって支えられなければ教会にいられないほど弱い存在なのです。

しかし、私たちがそれぞれ自分自身の本当の姿をさらけ出した時、その兄弟とは、私自身ではありませんか。実は、他ならぬこの私が、皆さんに忍耐して支えていただいて、初めて喜んで神と教会に仕えることが許されているのです。私はキリスト者です。十字架の主イエスを信じている、救われていることに感謝している。しかし、その裏側で、それぞれが本来捨てなければならない罪になお支配されながら、苦しみあがいているのではありませんか。どうして人に言えないような恥ずかしい罪がいつも心に浮かぶのか。怒り、姦淫、物欲の数々。私たちは、自分の本当の姿を直視した時、私が弱い者であり、罪人の頭であることに愕然とし、戦慄が走るのではありませんか。本来とっくに捨て去らなければなければならない罪という慣習を捨てきれず、それに支配されている、この弱いキリスト者が私なのです。しかし、その私のために、キリストが十字架で死んでくださった、と聖書は言うのです。

これが福音です。救われるはずのない者が救われるから福音なのです。そして、救われただけではない。その後私たちは用いられるのです。つまり、こういう事なのです。「キリストはその兄弟のために死んでくださった、それは、聖霊によって与えられる義と平和と喜びによってキリストに仕えるためである」、本日の御言葉は、これが言いたいのです。

経済的な事情から献金がなかなかできないことに心を痛める方、健康的な面や体力的な衰えなどで、奉仕が難しいことに責任を感じておられる方、或いは、この世の務めで、主の日もなかなか休めないことに負い目を感じておられる方もおられる。しかし、それは、主なる神様が一番ご存知です。神様が全部知っておられる。それでも尚あなたが必要だから教会に招いてくださっているのです。教会にあなたがいなければ困るのです。ですから、そのようなしがらみは一切捨てて、むしろ聖霊によって与えられる義と平和と喜びを丸ごと受け取っていただきたい。他でもないあなたのために、栄光の神の御子が十字架で死なれたからです。(マタイ福音書11:28参照)