2020年06月14日「パウロの弁明Ⅱ-イエスとの出会い」

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パウロの弁明Ⅱ-イエスとの出会い

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 22章6節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。 『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。 使徒言行録 22章6節~11節

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説教の要約「パウロの弁明Ⅱ-イエスとの出会い」使徒言行録22:6~11

前回からの弁明で、パウロは、キリストの愛と恩恵を正確に伝えるために、迫害者であった過去の姿をまずさらしました。そして、その恥ずべき、呪われるべき迫害者に、キリストの憐れみが注がれる場面が、本日の御言葉なのです。これがいわゆるパウロの回心と呼ばれる出来事です。

 いよいよ目的地ダマスコに近づいた時、「真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました(6節)」、とパウロは証言しています。真昼、といいますと一日の中で最も陽の光が照り付ける時間で、特にパレスチナの太陽はとてもまぶしいと言われています。パレスチナ特有の乾燥した気候で、遮るものがないまぶしい太陽、それがダマスコ途上にあったのでしょう。その容赦なく陽の光が照り付ける、しかも最も明るい時間に、さらに明るい光が、突然、わたしの周りを照らしました、このようにパウロは証言するのです。

しかも太陽と同じ天からの強い光である、とパウロは言うわけです。しかし、この強い光は、太陽と同じ方向からの強い光であるのにもかかわらず、わたしの周りを照らしました、とパウロは証言します。この周りを照らす、という言葉が、この光と太陽の光との違いをよく現わしておりまして「周辺に環状に輝く」、そのような意味です。太陽の光なら、天から直線的にこちらに注がれますから、その反対側には影ができます。しかし、この天から強い光は、天からのものであるにも関わらず四方八方からパウロを照らした、ということなのです。すなわち、影がない、逃げ場が一切ない光であった、そのように聖書は言うのです。

神からの光は、人間に影を与えないのです。罪人に、逃げ場を与えないのです。そして、全てを暴くかのように、四方八方から罪人を照らすのです。これが神の光なのです。

さて、その圧倒的な光に照らされたパウロに、イエスの声が迫ります。しかし、主イエスは、最初に名乗ったのではありません。まず、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、とこのようにパウロに尋ね、パウロが「主よ、あなたはどなたですか」、と質問したから、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」、と回答されたのです。この順番がとても大切です。

この時、サウロが迫害していたのはキリスト者です。まだ、産声を上げたばかりで、「この道」と呼ばれていたキリスト者を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に送り、殺すことさえした、このようにパウロは証言しておりました(4節)。つまり、パウロが縛り上げて牢に送り、殺すことさえした名もなきキリスト者の男女が、キリストである、ということです。

迫害され、聖書に名前も残されないで抹殺されていった信徒たちがキリストである、ということです。なぜ、わたしを迫害するのか、とキリスト自身が言われたのですから。

この時牢にいた者もありましょう。殺すことさえした、とパウロが言うのですから、もうすでに地上での命を失ったものもあったでしょう。しかし、牢にいようが、殺されて肉体が朽ちていようが、キリスト者である以上、キリストは、その一人でも忘れることはないのです。いいえ、それどころではない。なぜ、わたしを迫害するのか、とキリストが言います時、その彼らと共にキリストはおられるのです。一人のキリスト者は、キリストそのものである、とキリストご自身が言われるほどにキリストと一体的なのです。生きていても死んでいても、キリスト者はキリストと一体なのです。

本日の御言葉から2つ大切なことを確認したいと思います。

 一つ目、このイエスとの出会い、パウロの回心は、神の選びであり、予定であったという真理です。

「真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました」、とこの出来事が起こったダマスコ途上で、イエスキリストに出会ったのはパウロだけでありました。周りにいた多くの者は、復活の主に出会うことは出来なかった。しかも、その一行の中で、最もナザレのイエスを憎み、キリスト者を迫害していたのは、パウロその人でありました。周辺の人たちは、パウロよりまだましであったのです。この一行の中で最も十字架の救いから遠い人物、それがパウロでありました。しかし、その救いから最も遠い男に主イエスは現れたのです。

神の選びは、誰が救われるのか、誰が救われないのかと詮索したり、不平を漏らするためのものではありません。罪人の頭でさえ救われるという、希望を与える聖書的真理なのです。

全能の神は失敗されない、選んだら必ず救われる、罪人の頭であろうが、迫害者であろうが、神の選びからは逃れられないのです(ガラテヤ1:13~15)。

だから、この私でも救われることを疑いえないのです。

 2つ目、イエスに出会った後のパウロの無様な姿です。

 その時パウロは、盲目で、手を引かれて歩みだしたのです。私たちも、十字架の救いに砕かれた時、このような姿ではありませんでしたか。神の子の十字架が私のためであった、と知らされた時、私たちは地に倒れ、そこから手を引かれてよちよち歩きを始めたのです。

 しかし、信仰生活を続けていくうちに、いつの間にか、それが当たり前のようになり、感謝とか、喜びが薄れていく。しかし、パウロは、最初の姿を最後まで忘れなかったのではありませんか。だから、三回の伝道旅行で教会を建て続け、福音宣教に明け暮れた後も、この出来事を鮮明に覚えているのです。この実直さが大切ではありませんか。

 戦いの勇者かのように馳せ参じ、ダマスコ途上で見事に大敗した迫害者。

 それがパウロのイエスとの出会いでした。

 「塵芥の時」以上に、さらにみっともない姿を、今日パウロは民衆にさらしたのです。

 私たちが、過去どのような者であったか、それは大した問題ではありません。

 どのような者であっても、今救われている、という価値は何ら変わりません。

 過去の姿に苦しむのではなく、今与えられている恵みに感謝するべきです。

 しかし、それでも尚、その姿を忘れてはならないのです。

 私が主イエスに出会ったあの姿を。

 罪人の頭でさえ、あの無様な私でさえ救われた、それどころか今このように召されている。

 その時、一体だれがこの救いから漏れましょうか。

「くすしきめぐみ あまねく満ち、あるに甲斐なき われをも召し、あまつ世継ぎと なしたまえば、たれか洩るべき 主の救いに。(讃美歌502-3)」