2022年06月26日「生きるにも死ぬにも‐Ⅰ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5節 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。
6節 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。
7節 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
8節 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
9節 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
ローマの信徒への手紙 14章5節~9節

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説教の要約

「生きるにも死ぬにも‐Ⅰ」ローマ書14:5~9

先週から、ローマ書の14章に入りまして、信仰生活についての具体的な勧告が始まりました。

 本日の御言葉は、その信仰生活の原則が示された非常に大切な箇所でありまして、「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。(6節)」、ここで繰り返される「主のために」、ということと「神に感謝している」、この2つが、信仰生活におけるあらゆる規定についての信仰的原則と申し上げてよろしいでしょう。

まず「主のために」、これが、信仰生活を築いていくうえで最も大切な原則です。ここでは「主のために」、と訳されていますが、もともとのギリシア語ではいろいろな訳が可能です。「主にあって」、「主によって」、「主の中で」、とこのようにも訳せます。つまり、「主のために」、というのは、私たちが主イエスに結び付けられている現実から言われていることなのです。主がともにおられる、インマヌエル、これがこの「主のために」が示す具体的な立場です。それゆえに、暦であれ、食事であれ、それを規定する原則は、主である、ということです。主イエスキリストとの関係の中で、各自が判断すればよいのであって、周りを見回したり、周りと比べたり、逆に周りを批判したりする必要などない、ということなのです。私たちは、信仰生活において、度々失敗して人に迷惑をかけてしまったり、恥ずかしい思いをしたりします。しかし、そのような時でさえ、私たちが主にあることには変わりません。主イエスは、私たちがお利口さんだから一緒にいてくださるのでしょうか。いいえ、主イエスは、私のために十字架についてくださった私の救い主です。そうである以上、全ての責任を主イエスは負って下さらないはずがありましょうか。たとえ、人に軽蔑され、人に裁かれようとも、主イエスだけは共にいてくださる、ここに私どもキリスト者の確信があります。

 そして、もう一つの原則の、「神に感謝している」、これも非常に大切です。信仰生活は、感謝の応答である、ということです。ある特定の日を重んじる、或いは食事をしたり、断食をしたり、それは、神に対する感謝の応答であって、それ以外ではないということなのです。何時の時代も、信仰生活に付き物なのが功績主義です。信仰生活が、いつの間にか神様への点数稼ぎに変わっている、意識しようがしまいが、これは誰にでもある傾向です。私はだめだ、とため息をつくのも、実はこれに含まれます。そして、功績主義は、キリストの十字架の完全性を否定する愚かな道です。その場合、必ず信仰生活から平安がなくなっていきます。信仰生活の平安は、キリストの十字架の完全性を疑わないこと、ここにしかないからです。そして、主イエスが全て実現してくださった、だから私たちの信仰生活は、その全体が感謝の応答なのです。ですから、それが取るに足らないものであっても、その場合、必ずそこには平安が満ちているのです。キリストが全てだからです。

 さて、この立場がさらに説明されていきます。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。(7節)」ここでは、「自分のために」、という言葉が繰り返されながら、生と死がぶつかり合っています。この「自分のために」、これは、「主のために」、と同じ表現で、「主」と「自分」が入れ替わっているわけです。ですから、この「自分のために」、これは、「自分にあって」、「自分によって」或いは、「自分の中で」、とこのようにも訳せるわけです。そして、ここで言う、「わたしたち」、というのはすなわち全ての信仰者、キリスト者に他なりません。

つまり、キリスト者の生と死は、自分のためではない、ということです。私たちは、「自分にあって」生きるのではない、「自分によって」死ぬのでもない、もし、死が自分のためにあるのなら、そこにあるのは、絶望と耐えがたい孤独ではありませんか。その場合、死ほど恐ろしくネガティブな言葉はありません。しかし、神の言葉は、死さえもポジティブな言葉に変える力を持っているのです。

そしてそれが、私たちキリスト者にとっての生と死の意味が解明されることによって示されます。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(8節)」

 なんと希望に満ち溢れた御言葉でありましょうか。通常人類にとって、死ほど恐ろしく悲しくネガティブなものはありません。しかし、それが、主イエスにある、というこの信仰の現実におきまして見事に逆転しているのです。キリストにあっては、死もまた積極的な局面に変えられるのです。生きることがポジティブであるように、死ぬこともポジティブである、これが聖書の立場です。そして、実に、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」、ここに私たちキリスト者に対する慰めの全てが要約されています。それだけこれは大切な約束です。

どうか、生と死の全ての局面で、この御言葉に立っていただきたい。どのような人生でありましても、その生涯が主イエスのものである以上、そこに後悔など必要ありません。或いは、「終わり良ければ総て良し」、とは言えない死を迎えられる方もおられましょう。 しかし、その死さえも、主イエスのものである、と御言葉が約束する以上、そこにあるのは、神の国の報いと永久の命の希望以外ではありません。実に、死は、キリスト者の信仰生活のその大切な要素であり、信仰の大胆さをもって積極的に向き合うものの一つなのです。

そしてその理由が明確にされます。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。(9節)」私たちにとって、生きることと死ぬことが同列に並べられ、「生きるにも死ぬにも」という立場が可能になったのは、キリストが死に、そして生きたからです。まず、キリストが十字架で死なれ、そして復活されたことによって、死が命に変わったのです。これが、私たちに対するキリストの死と復活の意味です。だから私たちキリスト者は、肉体の死さえも永遠の命の入り口である、という積極的な局面として捉えることが出来るのです。

 ハイデルベルク信仰問答問一は次のように謳います。

 問1 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

答 「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」これは、救いがただ十字架の主イエスにある、と告白する全ての教会が声を合わせて謳う福音賛歌であり、教会が教会であるための、キリスト者がキリスト者であるための指針がここにあります。