2022年06月12日「救いは近づく」
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救いは近づく
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- 新井主一 牧師
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ローマの信徒への手紙 13章8節~14節
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聖書の言葉
8節 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
9節 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
10節 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
11節 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
12節 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
13節 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
14節 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。ローマの信徒への手紙 13章8節~14節
メッセージ
説教の要約
「救いは近づく」ローマ書13:8~14
本日から、またローマ書講解を再開します。只今ローマ書講解は、通常信仰生活編と呼ばれています部分から教えられています。12章からのこの信仰生活編の文脈を大雑把に整理いたしますと、12章と13章が、その信仰生活編の総論的な部分、そして14章以下が、具体的な問題に対する勧告で各論的な部分と言えます(~15:13まで。15:14からは、いよいよエピローグ部分)。
ですから、本日の御言葉は、信仰生活編の総論的部分の結論、ともいえるとても大切な御言葉でありまして、終末的な緊張感に満ちています。それは、「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。(11節)」この御言葉からも明確です。
ここでは、時間を表す言葉が3度繰り返されていまして、実は、ギリシア語の本文で読みますと3つとも違う字が使われていて、そこが大切です。まず、「今がどんな時」、の「時」という字は、その時点、或いは瞬間という意味を持つ言葉で、今私たちが生きているこの一瞬一瞬でありまして、何時終わりの時が来てもおかしくない時の連続でそれが成り立っているのです。次に、「眠りから覚めるべき時」、のこれも「時」という字、これは、ある程度の期間を示す意味も持つ、そう言う「時」でありまして、主なる神様が一人でも多くの者が救われるために、あえてその時を延長してくださっている期間のことであります(Ⅱペトロ3:9)。さらに、「わたしたちが信仰に入ったころ」、の「ころ」、これは、過去形の動詞とセットで使われることが多く、あの時、という過去の一場面を示すものです。この三つの時の組み合わせによって、ここで示されている時間の概念は、終末的な緊張によって支配されているのです。実に私ども信仰者は、必ず、この3つの時制をもって生かされていて、この終末的な緊張感が、必然的に福音宣教に熱心さを与えるのです。全ての時を支配されるのは、主なる神様だからです。今、第三次世界大戦の足音が聞こえ、私たち人類は、地球を何十回も吹き飛ばす核爆弾の恐怖にさらされています。しかし、恐れるには及びません。世界を終わらせるのは人間ではなく、神様だからです。そうである以上、むしろ私たちは核爆弾以上に、強力な力を持っていることに気が付かなくてはなりません。それは福音です。十字架の言葉です。この世を終末に導くのは、核爆弾でも世界大戦でもなく、御言葉なのです(マタイ24:3~35参照)。核に怯えるこの世の只中でも、私どもは、キリストの救いを宣言し続け、この大切な主なる神様の忍耐の期間に、一人でも救いの中に入れられるように、勤しむのです(「今や恵の時、今こそ救いの日」Ⅱコリ6:2)。
そして、その終末的福音宣教の姿が、大切な言葉で要約されます。「主イエス・キリストを身にまといなさい。(14節)⇒ガラテヤ3:26~28参照」、これです。そして、これが、12章から始まりましたこの信仰生活編の総論部分の結論、と申し上げてよろしいでしょう。
12章に入りました時に、12:1、2が、この信仰生活編の序論でありテーマでもある、とこのように申し上げて、この部分を二回に分けて念入りに学びました。その中で、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(12:2)」ここでは、「心を新たにして自分を変えていただき」、この「変えていただき」、この言葉が大切で、これは聖書的に、主イエスの姿に変えられることを意味する非常に大切な言葉である、とこのように確認しました。この「心を新たにして自分を変えていただき」、というのは、「主と同じ姿に造りかえられていく(Ⅱコリ3:18)」、というとんでもない変化なのであり、桁外れの恩恵なのです(4月3日説教の解題を参照)。
そして、「主と同じ姿に造りかえられていく」、これが信仰生活編の序論であるのに対して、結論では、「主イエス・キリストを身にまといなさい」、とこのようにまとめられるのです。なんとも麗しい御言葉の調和ではありませんか。その間にある全ての勧告は、「主イエス・キリストを身にまといなさい」、これに集約されているわけなのです。それゆえに、「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです(10節)。」、この御言葉にも私たちは耐えられるのであります。
私たちが、いかに罪深く汚れていましても、キリストを着ているので、あたかもキリストであるかのように、主なる神様は受け入れてくださる、私たちの不完全な働きもキリストのゆえに受け入れてくださる。今もこのように主なる神様の御前に立って安心して礼拝をおささげすることが許されている。それは、私たちがキリストを着ているからです。
しかし、だからと言ってそれでハッピーエンドではありません。キリストの中身のこの私は、依然として汚れているからです。地上で生きている以上、私たちは、この汚れに苦しむのです。パウロは、最後に「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません(14節)」、とこのように言いますが、他の誰よりも、自らのこの欲望に苦しんでいたのもパウロであったように思います。
実は、この「欲望」という字は、ローマ書で5回しか使われないのですが、ここで使用される前にとても大切なところで繰り返されます。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。(7:7、8)」ここで繰り返されている「むさぼり」という言葉が、本日の御言葉では、「欲望」と訳されている同じ字です。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」、とキリストとの結合を謳っていたパウロは、同時に律法を守れない自分の姿もよく知っていて、苦しみ悶えていたのです。確かに、救いの約束をいただいている、キリストに結び付けられて、無罪とされている、それはよくわかっている、信仰によって受け止めている。しかし、それでも尚、私たちは、あらゆる種類のむさぼりに苦しむのではありませんか。主イエスを愛し、主イエスのお役に立ちたいと願えば願うほどに、そのギャップにあがくのではありませんか。
しかし、だからこそ「救いは近づいている」、これが大きな福音となって、私たちに慰めを与えてくれるのです。私たちが、信仰生活の中でいかに苦しもうとも、「わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」、遠ざかることはないのです。私たちの状態が悪くなっても、病を患っても、或いは経済的な困難に陥っても、「救いは近づいている」、この約束は違わないのです。或いは、この世の状況がますますひどくなっても、「救いは近づいている」、この歴史的事実は変わらないのです。
私たちが救われたあの時から、神様が、忍耐をもって裁きの日を引き延ばしておられる今日までの期間、そして、私たちが今生きている一瞬一瞬、その全てが、救いは近づいている、と謳われる恵みと憐れみの時なのです。私たちは自分の救いに関しては全く無力です。しかし、その私に、救いは近づいている、と御言葉は言うのです。この福音に目を覚まして、奮い立とうではありませんか。