2022年05月22日「この世の権威とキリスト者」
問い合わせ
この世の権威とキリスト者
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 13章1節~7節
Youtube動画
Youtubeで直接視聴する
聖書の言葉
1節 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
2節 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
3節 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
4節 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。
5節 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。
6節 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。
7節 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。ローマの信徒への手紙 13章1節~7節
メッセージ
説教の要約
「この世の権威とキリスト者」ローマ書13:1~7
長い教会史の中で、本日のこのローマ書13:1~7の御言葉は、教会と国家との関係を教える聖書個所として、何時の時代も重要視されてきました。良くも悪くも、これほど教会と国家との関係に影響を与えてきた御言葉はない、と申し上げてよろしいでしょう。しかし、この御言葉は、神学的国家論のような大それたものではないのです。このローマ書が執筆されている当時の時代背景を無視して、この御言葉をそっくりそのまま現代に適用して、教会と国家の関係を定義する、という乱暴な方法では何も分かりません。当時の時代背景と執筆目的から素直に解釈した時この御言葉は12章から延長された一般的な信仰生活の勧めなのです。この段落の最後が、納税の問題で終わっているのもその理由からです。その立場に立ってここでパウロは、「神に由来しない権威はなく」、と言っていますが、その権威が良いか悪いかは、全く問題にされていません。よい権威であれ、悪い権威であれ、「今ある権威はすべて神によって立てられたものだ」、とこのようにパウロは言いたいのです。ローマ帝国の役人は異教徒であり、その異教徒の官憲が賄賂を取り、法外な手段で懐を温めている、それが現実であったのです。それでも尚、神に由来しない権威はない、とこのようにパウロは言い切るのです。どうしてでしょうか。それは、それ以上に、宗教的熱狂によって、日常生活の枠を踏み越える、と言った無秩序な暴動に、パウロはサタン的な要素を見抜いていたからなのです(使徒言行録19:21~40、21:27~36等を参照)。この熱狂主義者たちのように、盲目的に行動してこの世の権威に逆らった時、その結果残された道は、「怒りを逃れる(5節)」ことくらいなのです。つまり、それは暗闇から暗闇で、盲目的に行動したから、盲目的に逃げ出すしか道がないのです。しかし、キリスト者は「良心のためにも、これに従うべき(5節)」、とありますように、盲目的ではなくて、良心という理性的思考に立って、この世の権威に従い、秩序を守ることが許されるのです。市民生活においても正々堂々と光の中を歩む、それがキリスト者であり、良心のありかなのです。それゆえに、邪で冷酷な取立人であろうが、重税であろうが、それに従え、というのが最初期のローマの教会の信仰者に奨励されたメッセージであって、これがパウロの言いたいことであったのです。
その上で、ではこのメッセージは、今日の教会と私たちキリスト者に対して何を語るのか、御言葉は私たちに何を求めるのか、このことについて、大きく二つのことを確認したいと思います。
一つ目は「今ある権威はすべて神によって立てられたもの(1節)」、これは時代を超えて普遍的であるということです。私たちの時代も、或いは、あの暗黒の戦時下にあっても、神に由来しない権威はない、それが良いものであっても悪いものであっても、それが御言葉で示されているのです。
むしろ、何時の時代であっても、世界中で人間の罪が台頭し、不正が横行し、弱い者は虐げられ、争いが絶えることはない、これがこの世の権威がもたらす現実ではありませんか。しかし、その只中で、神の国を実現していく場所こそが教会なのです。何時の時代も、この世の権威のもとで、教会と私たちキリスト者の信仰が試されるのです。そして、これがこの2000年間の教会史の中で連綿と続けられてきた信仰の戦いと福音宣教そのものです。しかし、それは永遠に続くものではありません。この世の権威が幅を利かせる時代の終わりは近いのです。実は、同じこのローマ書13章の少し後に非常に大切な御言葉があります。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。(13:11)」大切なのは、この御言葉に立つことです。
今ある権威はすべて神によって立てられたものである以上、同時にどのような権威であろうが、立つも倒れるもただ神の決定にかかっているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」、この信仰的視点で、キリスト者はこの世の権威に対峙するのです。
もう一つは、良心の問題です(5節)。見逃してはならないのは、ここでパウロは、信仰のためにもこれに従うべき、とは言わないで、「良心のためにもこれに従うべき」、というのです。この世の権威者に対して私たち信仰者は良心で向き合うからです。信仰は、信徒にしか与えられていませんが、良心は全ての人に与えられています。そう言う点で、良心は普遍的に人に与えられているものでありますが、一人一人、或いは、その置かれた時代によって違います。良心と言うのはやましさを感じることによって機能するものであって、それは人によって、そしてその生きた時代によって違うからです。
あの戦時下にあって、天皇は現人神とされ、人々は、天皇のために命をささげることが臣民としての義務であると教育されました。ですから、あの戦争から生還できた人たちが、良心にやましさを感じてしまうことは普通であったのです。このように、良心がその時代に翻弄されたり、当てにならないものであることは、実はキリスト者であっても言えることです。同じ戦時下にあって、教会は、この御言葉を捻じ曲げて、軍国主義に支配された国家の権威を神の権威とみなしこれに従ったのです。おそらく教師や長老と言った民の指導者的な立場にあった者たちの中には、そのことに対して良心の呵責を感じた者もあったでしょう。しかし、多くの信徒たちの良心は、戦前の軍国主義教育に支配され、礼拝に於ける宮城遥拝や君が代斉唱に対して良心は鈍感になっていたのではないでしょうか。そして、これは決して昔話ではありません。教育が良心に与える影響は昔も今も変わらないからです。本日の御言葉から私たちが本当に学ぶべきは、この良心を守ることです。
では良心はどのように守られるのでしょうか。私たちの信仰告白でありますウエストミンスター信仰告白は良心について「神のみが良心の主であり」、とまず告白します(20:2)。良心の主は、国家でも自分自身でもなくて、神様なのです。逆に言えば、私たちの良心は神の僕であるということです。ですから、良心を守るということは、常に御言葉に聞いて悔い改め続けることです。そのうえで、神のみが良心の主である私たちの義務として、その良心に基づいて行動することです。それは、我が国が再び戦争ができる国へと舵を取って、国民の良心を支配しようとする時、命がけで抗議することです。或いは、落ち着いて生活をし、税金や選挙権と言った国民の義務を忠実に果たすことです。
現代において「良心のためにも、これに従うべきです」、というのはそのような信仰生活です。
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」、と謳ったパウロ自身は、その権威によって、しかもその剣によって殉教しました。「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」、とローマ書を執筆したパウロ自身が、ローマの地でその剣に倒れたのです。悔しいほどの皮肉です。どうしてでしょうか。それは、福音宣教に命をかけたからです。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」、という一般的な勧告は、神に従うか、この世の権威に従うか、が問われた時、すぐさま無効になるのです。これは教会が誕生した瞬間から全く変わらない信仰者の良心です。そしてここに、この世の権威に対するキリスト者の立場があります。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒5:27~29)」