2022年05月08日「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け」
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喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 12章14節~16節
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聖書の言葉
14節 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
15節 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
16節 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
ローマの信徒への手紙 12章14節~16節
メッセージ
説教の要約
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け」ローマ書12:14~16
本日の箇所から、教会の兄弟姉妹だけでなく、この世の信仰を持たない人たちとの関係にまでその範囲が拡大されて、私たちキリスト者の信仰生活が教えられていきます。
ここではまず、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(14節)」、と勧告されます。信仰を持たない人どころか、「あなたがたを迫害する者」までが、そのターゲットになるわけです。これは「敵を愛せ(マタイ5:44、ルカ6:27)」と言われて、ご自身が敵を愛し、その挙句十字架で死なれた主イエスの御生涯そのものです(ルカ23:34)。キリスト教というのは単なる教えや優れた思想ではなく、イエスキリストそのものであり、この主イエスを信じて救われる、それがキリスト教です。ですから、実は、本日の御言葉ほどキリスト教を特徴づけ、象徴するような箇所は少ないのです。信仰を持たない人に対するキリスト教信仰生活の勧告は、必然的にこの世にキリスト教の何であるかをさらけ出すのです。
その中で、ひときわ強調されている御言葉が、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(15節)」この部分です。実はこの9節から21節までの段落で、この節だけ、不定詞といいまして動詞が、名詞や形容詞、或いは副詞のような機能を持つ言葉に語形変化したものが使われているのです。研究者によっては、この場合の不定詞は、命令法よりさらに強い命令形である、と解釈する者もおります。或いはそうなのかもしれません。しかし、私訳としてここを訳しますと「喜ぶ人と共に喜ぶために、泣く人と共に泣くために。」、となりまして、この節が全体の目的のように機能しているように思えるのです。
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい(14節)」或いは、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(16節)」、その目的が、喜ぶ人と共に喜ぶためであり、泣く人と共に泣くためである、としたら如何でしょうか。或いは、次週の箇所、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。(17節)」、これも、喜ぶ人と共に喜ぶためであり、泣く人と共に泣くためである、これがその目的ではありませんか。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」これは目的にはなり得ないのです。或いは、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」、これも手段であって目的ではありません。これだけでは喜びも悲しみもありません。これで満足していたら、それはやせ我慢か強がりであり、独りよがりです。キリスト教はそれらとは真逆の立場であり、必然的に信徒の交わりとこの世との関わりを求める宗教です。
次週まで続くこの段落全体(9節~21節)の主格は、愛であることが先週確認されました。そして、実は、愛を主格にしたこの文脈全体の目的、それが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(15節)」これなのです。前述の通り、本日の御言葉は、キリスト教を特徴づけ、象徴するような箇所であります。この世にキリスト教の何たるかを示す御言葉であり、そしてキリスト教とは、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く宗教なのです。信徒の交わり、そしてキリスト者が、この世の人に仕えるその姿が、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことに象徴されるのです。
それは、キリスト教とは、主イエスキリストそのものだからです。主イエスご自身が、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いてくださる方なのです。私たちが洗礼を授けられ、この主イエスと共にいる約束がなされた時、最も私と共に喜んでくださるのは、主イエスです。私が、地上での困難や悲しみに打ちひしがれている時、最も私と共に泣いてくださるのも主イエスです。
その主イエスの地上でのお姿が、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(16節)」、この勧告にそのまま描かれています。
この「高ぶらず」、の高さは、ギリシア語の意味で天的な高さ、神の座を示すそう言う高さです。私たちが、高ぶらないのは、むしろ当然で、高ぶったとしても、実はそう錯覚しているだけの話で、全然高くないのです。それは、背伸びするのがやっとの高さでありましょう。しかし、主イエスは天から来られた神の御子です。本来、天の高さの地位にある方が、「高ぶらず」にむしろへりくだった。身分の低い人々と交わってくださった。また、最も賢い方、神の知恵であられる方が、自分を賢い者とうぬぼれることはなかった。かえって僕の身分になって、この世に仕えたのです(フィリピ2:6~8)。
特に、この節で、「身分の低い人々と交わりなさい」、とありますこの「交わる」、という言葉は、よく信徒の交わりで使われるあの「コイノーニア」とは違う言葉です。先週の箇所の最後の節で、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け(13節)」、とあります「自分のものとして彼らを助け」、ここは一文字で、通常私たち信徒の交わりを意味する「コイノーニア」という言葉から派生した動詞で「コイノーネオー(κοινωνέω)」という字が使われていることを確認しました。しかし、本日の箇所で使われています、この「身分の低い人々と交わりなさい」、の交わる、という言葉、これは、「一緒に運び去られる」、「引きずり込まれる」、或いは「唆される」、もともとはそう言う意味で、信徒の交わり、という言葉で片付けられるような事態ではありません。むしろ、悪党に巻き込まれる、そう言う状況です。そして、これもそのまま主イエスの姿ではありませんか。主イエスは、罪人の友となって、一緒に食事をされたのです。主イエスは、身分の低い人々と一緒に運び去られるような立場に身を置かれたのです。しかし、運び去られて、裁きを受けたのは、主イエスだけでした。一緒に運び去られるべき、身分の低い人々は、裁かれずに無罪放免とされました。彼らは、飲んで食べて罪まで赦された虫のいい連中なのです。実にこれが十字架で起こった驚くべき逆転です。そして、この罪人の友主イエス様が私の救い主なのです。そうである以上、たとえこの世が、この私を忘れても、友人や家族にまでも見捨てられても、或いは、死の床にあっても、最後まで十字架の主イエスだけは、私と共に喜び、私と共に泣いてくださることをどうして疑いえましょうか。この我らの友十字架の主イエスを信じ、この主イエスの十字架の救いを宣言するのが、私たちキリスト教であります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」それはまず主イエスが、私と共に喜び、私と共に泣いてくださるからです。
本日の招きの詞で与えられた「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ(ヨブ1:21)」、この御言葉が本当に試されるのは、最も大切な者を失った時ではありませんか。そして、これは、私と共に喜び、私と共に泣いてくださる私の真の友、主イエスの約束の許で、初めて私たちの信仰告白となりうるのです。
「いつくしみ深き、友なるイエスは、罪とが憂いをとり去り給う~いつくしみ深き、友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ~いつくしみ深き、友なるイエスは、変わらぬ愛もて導き給う、世の友我らを棄て去る時も、祈りにこたえて、いたわり給わん。アーメン。(讃美歌312番)」