Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 9節「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、」10節「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」ローマの信徒への手紙 12章9節~13節 メッセージ 説教の要約 「霊に燃えて主に仕えよ」ローマ書12:9~13 本日の御言葉は、まず9節の、「愛には偽りがあってはなりません」、この勧めから始まって、以下命令法のスタイルをとって繰り返し勧告がなされていくように訳されています。「優れた者と思いなさい(10節)」、これを皮切りに、「主に仕えなさい(11節、)」、「たゆまず祈りなさい(12節)」、「努めなさい(13節)」、とこのように勧告が続くわけです。しかし、実は、もともとのギリシア語の本文では、本日与えられた御言葉の13節終わりまで、一度も命令法は使われていません。次週の箇所で、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい(14節)」とありますが、ここで初めて命令法が使われます。それまでは、定動詞も一切使われず、分詞と言いまして、動詞が形容詞や名詞のような機能を持つ状態に語形変化したものが繰り返される、というとても面白い構文に仕上がっているのです。どうして、このように分詞構文で、数珠つなぎのように文が綴られているのでしょうか。 それは、本日の御言葉の主格が、実は全て「愛」であるからです。ギリシア語の本文では9節の文頭にあります「愛」これが本日の御言葉全体を支配している、そう言う文章構造になっているのです。さらに言えば、この12章の最後まで、「愛」がこの文脈全体の主格なのです。 つまり、「愛は、怠らず励み、愛は、霊に燃えて、主に仕える。愛は、希望をもって喜び、愛は、苦難を耐え忍び、愛はたゆまず祈る(11、12節)」、とこのようなニュアンスでこの箇所は語られているのです。 この御言葉、どこかで見たおぼえがありませんか。そうです、あのⅠコリント13章の愛の賛歌と呼ばれる御言葉です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。(Ⅰコリント13章4節~7節)」この愛の賛歌をパウロは、本日の御言葉では、「ローマ書版愛の賛歌」として謳っているのです。 そして愛が、この文章全体の主格である、と言います時、次の節も容易に理解することができます。 「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。(13節)」、ここでも、「愛は、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、愛は、旅人をもてなすよう努める」はずです。それは、「愛には偽りがあってはなりません」、とまず言われていますように、愛は、演技やお芝居ではないからです。この愛は、神の愛であります「(アガペー)ἀγάπη」であり、そしてその最高峰にありますのが主イエスの十字架です。ですから、私たちが、この十字架の愛に心震わされず、この愛に従わないのなら、主イエスの十字架をお芝居程度にしか見積もっていないことにならないでしょうか。実に信仰の現実において、愛は必然的に掟になるのです。 加えまして、ここで、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」、とあります、「自分のものとして彼らを助け」、実はこの部分、ギリシア語の本文では一文字でありまして、直訳しますと「共有する」、「分かち合う」、そう言う字が使われています。この字は通常私たち信徒の交わりを意味する「コイノーニア」という言葉から派生した動詞で「(コイノーネオー)κοινωνέω」という字です。聖なる者たちの貧しさを分かち合う、そこに信徒の交わりの原点があり、そして、ここに偽りのない愛が実現するわけです。偽りのない信徒の交わりを可能にするもの、それも愛なのです。愛がなければ、教会も、信徒の交わりも、信仰告白も、音をたてて崩壊するのです。 しかし、知識としてそれを知っているだけではだめなのです。『愛とは、神の愛であります「アガペー」であり、最高の「カリスマ」である』、と知っているだけではだめなのです。私たちは、同時に愛は冷えるものであることも覚えておかなければなりません。 ヨハネの黙示録は、まず7つの教会に対するキリストの言葉から本論が始まるのですが、その真っ先に愛が冷えるものである、と警告されていることを見逃してはなりません。「あなたはよく忍耐して、わたしの、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。(ヨハネ黙示録2:3、4)」これです。よく忍耐してきたのです。主イエスの名のために我慢して来たのです。しかし、それなのに、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」、その愛は冷えてしまった、と主イエスが言われるのです。では、どうすればよいのでしょうか。 どうすれば愛は冷えないのか、どうすれば、愛の火は燃え続けるのか。それが、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(11節)」この勧告なのです。 本日はこの御言葉から「霊に燃えて主に仕えよ」という説教題が与えられました。愛が冷えないためのたった一つの助け、それが聖霊なる神の導きであります。聖霊によらなければ、愛の火は必ず消えます。なるほど、よく忍耐してきた、主イエスの名のために我慢して来た、しかし、それが功績となって未来を切り開くのではありません。聖霊なる神様が私たちの中に住んでくださって、聖霊が油となって私たちの中で燃え続けてくださる、愛の火を灯し続けて下さる、この聖霊の力が私たちの未来を切り開き、信仰生活を導いてくださるのです。 この「霊に燃えて、主に仕えなさい」、の「燃えて」、これは新約聖書で2回しか使われない珍しい言葉で、「沸騰する」、「沸きあがる」、そのようなダイナミックな力を示す言葉です。そしてこれが聖霊の働きではないでしょうか。私たちが抑え込めるような、私たちがコントロールできるような愛なら、それはこの文章の主格になっている愛ではないのです。それは、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」、と主に評価される冷えた愛ではありませんか。計算高くない愛、大損さえする愛、それが霊に燃えて主に仕える真の愛であります。 そして、霊に燃える、というのは、決して浮世離れした霊的空間のような場所での出来事ではないのです。この世の只中で、燃え上がるのです。だから、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。(13節)」、この物質的援助のような地上的な行いも生み出すのです。 愛というのは、信仰生活の血流のようなものです。血流が止まった時、人が生きていくことができないように、愛がなければ、信仰生活は、続かないのです。 よく見ますと、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(11節)」この勧告が、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい(12節)」この勧告とセットになっていることが分かります。 「霊に燃えて主に仕えよ」それを可能にするのは、たゆまず祈ることなのです。祈りとは聖霊をいただくことであります。何者にも支配されることなく、風のように自由に働かれる全能者聖霊なる神様をいただく、それがたゆまず祈ることであります。この祈りの主である聖霊によって、私たちは、霊に燃えて主に仕ることが許されるのです。私たちの貧しい祈りを聞き届けて下さり、霊に燃えて主に仕える者として導いてくださる聖霊なる神に感謝します。 「あまつ風(聖霊)を おくりたまえ さらば愛の火は 内にぞ燃えん(讃美歌333‐3)」
説教の要約
「霊に燃えて主に仕えよ」ローマ書12:9~13
本日の御言葉は、まず9節の、「愛には偽りがあってはなりません」、この勧めから始まって、以下命令法のスタイルをとって繰り返し勧告がなされていくように訳されています。「優れた者と思いなさい(10節)」、これを皮切りに、「主に仕えなさい(11節、)」、「たゆまず祈りなさい(12節)」、「努めなさい(13節)」、とこのように勧告が続くわけです。しかし、実は、もともとのギリシア語の本文では、本日与えられた御言葉の13節終わりまで、一度も命令法は使われていません。次週の箇所で、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい(14節)」とありますが、ここで初めて命令法が使われます。それまでは、定動詞も一切使われず、分詞と言いまして、動詞が形容詞や名詞のような機能を持つ状態に語形変化したものが繰り返される、というとても面白い構文に仕上がっているのです。どうして、このように分詞構文で、数珠つなぎのように文が綴られているのでしょうか。
それは、本日の御言葉の主格が、実は全て「愛」であるからです。ギリシア語の本文では9節の文頭にあります「愛」これが本日の御言葉全体を支配している、そう言う文章構造になっているのです。さらに言えば、この12章の最後まで、「愛」がこの文脈全体の主格なのです。
つまり、「愛は、怠らず励み、愛は、霊に燃えて、主に仕える。愛は、希望をもって喜び、愛は、苦難を耐え忍び、愛はたゆまず祈る(11、12節)」、とこのようなニュアンスでこの箇所は語られているのです。
この御言葉、どこかで見たおぼえがありませんか。そうです、あのⅠコリント13章の愛の賛歌と呼ばれる御言葉です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。(Ⅰコリント13章4節~7節)」この愛の賛歌をパウロは、本日の御言葉では、「ローマ書版愛の賛歌」として謳っているのです。
そして愛が、この文章全体の主格である、と言います時、次の節も容易に理解することができます。
「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。(13節)」、ここでも、「愛は、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、愛は、旅人をもてなすよう努める」はずです。それは、「愛には偽りがあってはなりません」、とまず言われていますように、愛は、演技やお芝居ではないからです。この愛は、神の愛であります「(アガペー)ἀγάπη」であり、そしてその最高峰にありますのが主イエスの十字架です。ですから、私たちが、この十字架の愛に心震わされず、この愛に従わないのなら、主イエスの十字架をお芝居程度にしか見積もっていないことにならないでしょうか。実に信仰の現実において、愛は必然的に掟になるのです。
加えまして、ここで、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」、とあります、「自分のものとして彼らを助け」、実はこの部分、ギリシア語の本文では一文字でありまして、直訳しますと「共有する」、「分かち合う」、そう言う字が使われています。この字は通常私たち信徒の交わりを意味する「コイノーニア」という言葉から派生した動詞で「(コイノーネオー)κοινωνέω」という字です。聖なる者たちの貧しさを分かち合う、そこに信徒の交わりの原点があり、そして、ここに偽りのない愛が実現するわけです。偽りのない信徒の交わりを可能にするもの、それも愛なのです。愛がなければ、教会も、信徒の交わりも、信仰告白も、音をたてて崩壊するのです。
しかし、知識としてそれを知っているだけではだめなのです。『愛とは、神の愛であります「アガペー」であり、最高の「カリスマ」である』、と知っているだけではだめなのです。私たちは、同時に愛は冷えるものであることも覚えておかなければなりません。
ヨハネの黙示録は、まず7つの教会に対するキリストの言葉から本論が始まるのですが、その真っ先に愛が冷えるものである、と警告されていることを見逃してはなりません。「あなたはよく忍耐して、わたしの、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。(ヨハネ黙示録2:3、4)」これです。よく忍耐してきたのです。主イエスの名のために我慢して来たのです。しかし、それなのに、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」、その愛は冷えてしまった、と主イエスが言われるのです。では、どうすればよいのでしょうか。
どうすれば愛は冷えないのか、どうすれば、愛の火は燃え続けるのか。それが、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(11節)」この勧告なのです。
本日はこの御言葉から「霊に燃えて主に仕えよ」という説教題が与えられました。愛が冷えないためのたった一つの助け、それが聖霊なる神の導きであります。聖霊によらなければ、愛の火は必ず消えます。なるほど、よく忍耐してきた、主イエスの名のために我慢して来た、しかし、それが功績となって未来を切り開くのではありません。聖霊なる神様が私たちの中に住んでくださって、聖霊が油となって私たちの中で燃え続けてくださる、愛の火を灯し続けて下さる、この聖霊の力が私たちの未来を切り開き、信仰生活を導いてくださるのです。
この「霊に燃えて、主に仕えなさい」、の「燃えて」、これは新約聖書で2回しか使われない珍しい言葉で、「沸騰する」、「沸きあがる」、そのようなダイナミックな力を示す言葉です。そしてこれが聖霊の働きではないでしょうか。私たちが抑え込めるような、私たちがコントロールできるような愛なら、それはこの文章の主格になっている愛ではないのです。それは、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」、と主に評価される冷えた愛ではありませんか。計算高くない愛、大損さえする愛、それが霊に燃えて主に仕える真の愛であります。
そして、霊に燃える、というのは、決して浮世離れした霊的空間のような場所での出来事ではないのです。この世の只中で、燃え上がるのです。だから、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。(13節)」、この物質的援助のような地上的な行いも生み出すのです。
愛というのは、信仰生活の血流のようなものです。血流が止まった時、人が生きていくことができないように、愛がなければ、信仰生活は、続かないのです。
よく見ますと、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(11節)」この勧告が、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい(12節)」この勧告とセットになっていることが分かります。
「霊に燃えて主に仕えよ」それを可能にするのは、たゆまず祈ることなのです。祈りとは聖霊をいただくことであります。何者にも支配されることなく、風のように自由に働かれる全能者聖霊なる神様をいただく、それがたゆまず祈ることであります。この祈りの主である聖霊によって、私たちは、霊に燃えて主に仕ることが許されるのです。私たちの貧しい祈りを聞き届けて下さり、霊に燃えて主に仕える者として導いてくださる聖霊なる神に感謝します。
「あまつ風(聖霊)を おくりたまえ さらば愛の火は 内にぞ燃えん(讃美歌333‐3)」