2022年04月24日「信仰の物差し」

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3節 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4節 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5節 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
6節 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
7節 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
8節 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
ローマの信徒への手紙 12章3節~8節

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説教の要約

「信仰の物差し」ローマ書12:3~8

ローマ書講解は、12章から「信仰生活編」と呼ばれています新しい文脈に入っています。そして、前回確認しましたように、12:1、2が、この信仰生活編のプロローグ部分でありまして、本日の御言葉の3節から本論と言えます部分に入って行きます。

まずパウロは、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。(3節)」、と勧告を始めます。この「自分を過大に評価してはなりません、」、これが続きます、「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」、この部分と対照的に語られている、ということは、すぐにわかります。「自分を過大に評価」するのではなくて「慎み深く評価すべき」である、という対象的な関係です。そして、実はここでは、「評価すべきです」、この「評価する」、という言葉がとても大切なのです。この自己評価の基準はキリスト、しかも貧しい姿で地上を歩まれ、最後には十字架で死なれたキリストの基準*であるからです。

(*フィリピ2:1~8を参照ください、この「評価する」という言葉が、フィリピ2:2の方で繰り返されています「同じ思いとなり」、そして、「思いを一つにして」、この「思い」、という言葉と訳されている同じ言葉、さらに、2:5「互いにこのことを心がけなさい。」ここで、「心がけなさい」、と訳されている言葉、これも同じ言葉です。これらは、この主イエスのプロフィール(6~8節)を準備する機能を持っていると同時に、私たちキリスト者も、キリストのこのへりくだった姿を基準に思いを一つにせよ、とパウロは言いたいのです。それゆえに、この「評価する」という言葉の基準がキリストであると言えるのです。)

そして、その十字架のキリストの基準をさらに明確にしているのが、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」、これなのです。この「信仰の度合い」、これがそのまま十字架のキリストの基準なのです。この「信仰の度合い」、この言葉を言い換える形で「信仰の物差し」という本日の説教題が与えられました。私たちは、この「信仰の物差し」で、初めてキリストの基準で自分を評価し、周りを見渡すことができるのです。ここで、注目すべきは、その「信仰の物差し」も、決して私たちのオリジナルではなくて、「神が各自に分け与えてくださった」ものである、つまり神のオリジナルであるということです。逆に「自分を過大に評価する」、これは言い換えれば、自惚れることであり、自惚れ、これこそが私たち罪人のオリジナル、そして、この世の物差しなのです。つまり、神のオリジナルは、信仰の物差しであり、この信仰の物差しによって、自惚れの正反対の「慎み深い評価」が生まれる、この両者の対照的な関係がここで示されているのです。

 私たちの教会は、今年度の年間聖句として、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Ⅰコリント12:27)」、この御言葉が与えられました。そしてこの御言葉から、「一致する教会」という年間テーマが与えられました。毎週の週報の表紙で謳われている通りです。本日与えられましたローマ書の御言葉でパウロは、この信仰の物差しによって、同じ真理を語っているわけです。「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていない(4節)」、これです。目と耳の役割は違いますし、頭と足の役割も違う。その違う働きをしている一つ一つの器官が有機的に結び付けられて一つの体なのです。有機的な関係というのは、つまり生きた関係のことです。体のそれぞれの部分が生きている、生きて動いて活動し、助け合い、支え合う、だから体は成り立つのです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、また、一人一人はその部分です(5節)」、というのは、そのままこの生きた関係、生きた交わりであります。つまり、誰も全体を代表していないし、また余計な存在は一人もいないのです。教会に信仰者が加えられる以上、キリストが必要とされている、だからこの群れに招かれるからです。

 その上で、「キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分」である、と謳われる、そのそれぞれの働きが続く6~8節で具体的に示されます。ここで大切なのは、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている(6節)」、と言われている点です。続いて、その個々の賜物が列挙されるのですが、その全てが、「恵みによって」与えられる賜物以外ではない、ということです。つまり、教会というのは、その全ての根拠が神の恵みにある、神の恵みによらないものは、教会のどこにもない、それがここで示されているわけです。それを裏付けるように、この「賜物」という言葉は、ギリシア語で、「カリスマ(χάρισμα)」という字を書きまして、この「カリスマ」の語源は、そのすぐ前に使われています、「与えられた恵みによって」この「恵み」、ギリシア語では「カリス(χάρις)」という字であります。現代でも「カリスマ経営者」とか「カリスマ教師」、というように使われていますが、もともと「賜物・カリスマ」は、「恵み・カリス」の延長上に存在するわけです。ですから、カリスマというのは、この世が理解しているように、本人の際立った才能のようなものではなくて、あくまでも神の恵みによって与えられた賜物である、これが聖書の理解であり、教会の立場です。

 だからこそ、不要な人は、ただの一人もいないのです。恵みである「カリス」が信仰者の中で実現していくその具体的なかたちが「カリスマ」だからです。主が招いてくださった以上、それ自体が恵みで、この恵みを受けていない人が一人もいないように、賜物を受けていない人も一人もいないのです。そして、私たち一人一人がその賜物を見出すために与えられているのが信仰の物差しなのです。派手な働きなどいらないのです。御言葉を語る者も賛美をする者も奏楽者も、それぞれの信仰の物差しで精一杯主イエスに仕えているはずです。今日も、私のために十字架で死なれた主イエスを仰いで、心振るわせ勤しんでいます。献金当番、受付の奉仕、掃除、献金の管理、インターネット礼拝の奉仕、毎週、毎週、それぞれの信徒が、信仰の物差しによって教会で奉仕する、その地道な一つ一つの働きが、確かにキリストの体を形成し、成長させていくのです。

信仰の物差しは、この世にあっては、全く評価されないつまらないものでしかありません。それは、この世が十字架で殺した主イエスの基準だからです。この世の基準では、信仰の物差しは、何の意味も持たないのであります。しかし、神の国の基準では、信仰の物差しほど価値の高い基準はありません。私たちが、今信仰の物差しで教会に仕えている、これは、今現実に天の国で、そして来るべき神の国におきましては、最も称賛される働きなのです。どんなに小さい勤めに見えましても。

 本日の御言葉は、この日本語の本文ではわかりませんが、ギリシア語の本文では、とても終わり方が爽快なのです。最後に、置かれている字が、日本語で「快く行いなさい(8節)」と訳されています、「快く」、この言葉だからです。「快く」、で文章が終わっているのです。この「快く」、という字は、喜んで、愉快に、或いは上機嫌に、とも訳せる言葉です。勧告の最後にパウロは、愉快に、と言って終えるのです。これが、私たちの「奉仕・ディアコニア(διακονία)」ではありませんか(7節)。私たちの信仰の物差しは、その一つ一つの目盛りが喜びに満ちている、つい鼻歌を歌ってしまうほど、愉快で上機嫌な働き、喜び歌いながら主に仕える、それが、私たちの奉仕であります。