2022年04月17日「恐れることはない」

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1節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」
2節「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」
3節「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」
4節「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」
5節「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、」
6節「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
7節「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」
8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」
10節「イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
マタイによる福音書 28章1節~10節

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説教の要約

「恐れることはない」マタイ28章1節~10節

主イエスの復活の最初の目撃者となったのは、「マグダラのマリアともう一人のマリア(1節)」この婦人たちでした。すかさず、彼女たちは、主の使いによって、復活の証人として派遣されます。

「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。(7節)」、ここで、婦人たちは、主イエスの弟子たちへの使信として、「あの方は死者の中から復活された」、このメッセージを渡されます。そして、実は、ここから福音宣教は始まったのです。「あの方は死者の中から復活された」、この復活の事実を証するのがキリスト教であり、実は、後にパウロが、この福音を最も大切なこと、とこのように言ってはばかりません(Ⅰコリント15:3~8参照)。復活信仰が福音の中心であり、これを世の終わりまで宣言し、福音宣教を続けるのがキリスト教です。そして、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです(Ⅰコリント15:3)」、とパウロが言いますその先頭にいるのが、この二人の女性、「マグダラのマリアともう一人のマリア」、彼女たちなのです。ですから、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された』、ここから、福音の宣教が始まったのです。そして、最初にそのターゲットとなったのは、婦人たちとは対照的に、恐れて隠れていた臆病な弟子たち、まず身内への伝道であったのです。

その上で、この福音宣教の役割を最初に担った彼女たちの姿が描かれています。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(8節)」決して、この「婦人たち」の恐れが解消されたわけではありませんでした。「婦人たちは、恐れながらも」、とありまして、この「恐れながらも」、という言葉は、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり(4節)」、ここで使われている「恐ろしさ」という言葉と同じです。それは、「震え上がり、死人のように」なるほどの恐れです。しかし、それをはるかに上回る喜びが、今、彼女たちには与えられているのです。この「大いに喜び」、の「大いに」、という字は、あの「メガ」の語源になった言葉で、今では、メガというのは、10の6乗、すなわち100万倍を意味する言葉です。復活という事実は、恐れの100万倍、つまり、もはや比較などできない圧倒的な力を信仰者に与える、だから「恐れるな」、なのです。

ここで見逃してはならないのは、「弟子たちに知らせるために走って行った」、もはや黙っていられない、一分一秒でも早く伝えたい、それが復活の福音であった、ということです。本来、福音宣教というのはこういうものではありませんか。少なくともそのスタートは、「弟子たちに知らせるために走って行った」、これが福音を届ける価値であったのです。

現在伝道不振が続いている、それは、この喜びが失われていることにも原因があります。確かに、複雑な時代であり、サタンの妨害は張り巡らされている、しかし、福音の内容は全く同じです。「イエスは復活された」、この大きな喜びが、私たちにも与えられていることに、何の変りもありません。

私たちはあらためて、キリストの復活の事実は、本来、身内に対して、一分一秒でも早く伝えたい喜びであって、走り出すほどの喜びであったことを思い返したいのです。

 さて婦人たちが走り出すや否や、今度は復活の主イエスその方が現れ、主イエスご自身から改めて遣わされることになります。「イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。(10節)」、主イエスが彼女たちに与えられた務めは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」、これであります。

ギリシア語の本文では、文法的に、ここで3つの動詞が命令法で使われています。それは、「恐れることはない」、次に、「行って」、もう一つは、「言いなさい」、この部分です。これらは全て2人称複数ですから、直訳しますとこうなります。「あなたがたは恐れるな」、「あなたがたは行け」、「あなたがたは言え」、この最後の「あなたがたは言え」、これは通常「宣べ伝える」或いは「福音宣教する」とも訳せる言葉です。つまり主イエスは彼女たちに、「恐れるな」、「行け」、「宣べ伝えよ」、とこのように命じて、福音宣教の道を今開いたのです。実にこの3つが一体となって福音宣教なのではありませんか。「恐れるな」、「行け」、「宣べ伝えよ」、これなのです。

今、御言葉が言う二人称複数の「あなたがた」、それは私たちです。私たちに対して、主イエスは「あなたがたは恐れるな」、「あなたがたは行け」、「あなたがたは宣べ伝えよ」、と仰っているのです。恐れるな、では終わらないのです。行かなくてはならない、そして、宣べ伝えなければならない。

逆に、行って、復活者を宣べ伝えるから、恐れる必要などさらさらないのです。復活の主イエスを宣べ伝える以上、私たちもまた復活者であるからです。その時、私たちから死の恐怖は取り去られているのです(Ⅰコリント15:54、55参照)。

 最後に、ここで、主イエス様が、「わたしの兄弟たちに」、と言われている憐れみに目を止めていただきたいのです。少し前に天使たちは、「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい(7節)」、とこのように婦人たちに命じました。しかし、主イエスは、「私の弟子たちに」、とは言わず、「わたしの兄弟たちに」、と言ってはばからないのです。さて、今、主イエスの弟子たちは、何をしているでしょうか・・・。恐れて隠れています。ペトロは、三度主イエスを知らないとまで言いました。今、弟子たちは壊滅状態なのです。その無様な弟子たちを「わたしの兄弟たち」、と主イエスの方から寄り添ってくださる、これが主イエスの憐れみです。

 弟子たちは壊滅状態であった。しかし、復活の事実の前にそれは全く問題ではありませんでした。福音の力と主イエスの憐れみは、彼らを奮い立たせ、立ち上がらせたのです。

実に復活の福音は、この世で最も弱い者たち、最も臆病な者たちにまず委ねられたのです。そこから、地の果てまで響き渡ったのです。それは、弟子たちや、歴代の信仰者に力があったからではありません。福音そのものに力があったからです。

 私たちは、しばしば逃げてしまう者です。隠れてしまう者です。イエスを知らないように振舞ってしまう者でもあります。しかし、そのような弱い私たちを主イエスは愛してくださり、兄弟と呼んでくださる。そして、その私たちの弱さと愚かさを誰よりも知りながら、恐れるな、行け、宣べ伝えよ、とこの福音宣教の務めを与えてくださる。私たちは、復活の最初の福音を委ねられたのが、弱い女性たちであった、そしてその最初の行き先が裏切り者の集団であった、これが最初のイースターであったことを覚えましょう。イースターと福音宣教は一体的で、その担い手に取るに足らない者が用いられるのです。

 同じように弱く貧しく裏切り者であるこの私にイースターの福音が委ねられ、この場所から遣わされる憐れみに奮い立ち応えようではありませんか。今日「恐れることはない」、と遣わされた私たちが、行って、宣べ伝えるところには、必ず主イエスもおられるのです(マタイ28:20)。