2022年04月10日「なぜわたしをお見捨てになったのか」
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なぜわたしをお見捨てになったのか
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章35節~46節
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聖書の言葉
35節 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
36節 そこに座って見張りをしていた。
37節 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38節 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39節 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40節 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41節 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
43節神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44節 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
45節 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
46節 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書 27章35節~46節
メッセージ
「なぜわたしをお見捨てになったのか」マタイ27章35節~46節
旧新両約聖書の中心は、イエスキリストの十字架と申し上げてよろしいでしょう。しかし、ここで主イエスが十字架につけられる記録は驚くほど質素です。「彼らはイエスを十字架につけると(35節)」、これだけです。十字架刑は、手や足にくぎを打ち込まれる、恐るべき拷問です。主イエスは、それに耐えられたのですから、そこには戦慄を覚えるドラマがあったはずです。しかし、聖書はそのようなことには興味を示しません。聖書の主役である十字架の上の主イエスではなく、むしろ、十字架の下にいるわき役以下の罪人の姿を詳細に描くわけです。ここに本日の御言葉の主眼があります。
その上で、2つ大切な真理がここで示されています。
一つは、十字架の下から、主イエスに浴びせられた侮辱の言葉が、それぞれの立場から記録されているところです。ここには、通行人のユダヤ庶民もいれば、異邦人もいたでしょう(39、40節)。或いは祭司長や律法学者や長老たち(41~43節)、といった支配者層がいれば、強盗たちのように、社会的身分の最下層と目されていた人間さえいたわけです(44節)。しかし、その身分や人種の壁や隔たりは、イエスをあざける、という姿でものの見事に取り壊されていました。すなわち、全ての人が、十字架の主イエスの前では等しい、ということを聖書は示していて、ここでは十字架の主イエスと、あらゆる種類の罪人が向かい合っている、この現場が描かれているのです。
もう一つは、好き勝手に主イエスを侮辱する罪人たちのカオスともいえるこの場所で、実はその一人一人の罪人さえ用いられて、旧約聖書のメシア預言が実現していた、という驚くべき事実です。
実は、この十字架の主イエスをなぶりものにしている記事は、本日の招きの詞で与えられた詩編22編の預言の成就となっているのです。両者を見比べていただくと一目瞭然で、恐ろしいくらいに、詩編のメシア預言と一致しているのです。
(*マタイ福音書27章⇔詩編22編対照*・マタイ福音書27:35「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い」⇔詩編22:19「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」・マタイ福音書27:39「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって」⇔詩編22:8「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。」・マタイ福音書27:43「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」⇔詩編22:9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」・マタイ福音書27:46節「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」⇔詩編22:1「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。)
つまり、詩編22編の御言葉が枠組みになって、この出来事が起こっている、と申し上げてもよろしいでしょう。つまり、十字架の下で、罪人たちは、思い思いに主イエスを罵倒し、好き勝手にからかい、悪ふざけまでする始末であった、しかし、その罪まで用いられてメシア預言が成就していき、罪人の救いが実現に向かっていた、ということなのです。
その極めつけが、主イエスの十字架上での叫びなのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(46節)」これは、そのまま「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか(詩編22:1)」このメシア預言の実現です。実に、罪なき神の子羊である主イエスが、神に見捨てられ十字架で死なれたから、罪人の全ての罪が帳消しにされたのです。つまり、逆に言えば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」これは罪人の救いの宣言となる叫びなのです。神の御子が見捨てられたから、罪人が見いだされ、生かされたのです。祭司長たちが言いますように、「他人は救ったのに、自分は救えない(42節)」、だから救い主なのです。この驚くべき逆転が、救いの法則であり、今主イエスは、罪人が図らずも準備した舞台に立って、彼らの救いを宣言したわけです。そして、だからこそ、この十字架の場面は、イエスを取り巻くあらゆる立場の罪人の姿を描くのではないでしょうか。本来なら、終始主イエスの十字架に光が当てられ、詳細に語られて然るべきである。しかし、聖書が興味を示し、詳細に記録しているのは、わき役以下の罪人の姿なのです。ここでは全世界の救い主と全ての罪人が向かい合っているのです。
つまり、その罪人に救いの手が差し伸べられている、ということです。あらゆる種類の罪人が、十字架の主イエスと今向かい合っている、それは十字架を仰ぐ全ての罪人の救いが神の御心だからです。十字架の主イエスが可哀想だなんてそんな同情はいらないのです。余計な十字架のドラマを描く必要もない。大切なのは、私が十字架の下にいる罪人であることを認めて悔い改めることなのです。聖書が求めるのは、お涙頂戴ではなくて、悔い改めよ、なのです。
最初にイエスを罵る通行人の姿が、「頭を振りながらイエスをののしって、(39節)」と描写されますが、この最初に使われる「ののしる」、というこの言葉が、実は大切です。使徒パウロが繰り返し、この言葉を使って、彼の若い日に迫害者であった事実を告白しているからです。「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。(Ⅰテモテ1:13)」この最初に来ます「神を冒瀆する者」、この「冒瀆する」、この言葉です(使徒26:11も参照)。つまり、大伝道者パウロも、キリストの十字架の下の罪人の一味である、それ以上の者ではないということです。いいえ、パウロの認識では、全ての罪人が、十字架でイエスに向かい合うあのゴルゴダの丘で、最も罪深いのは自分であった、ということです。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(Ⅰテモテ1:15)」、彼は、イエスを十字架につけた人間以上に、罪人であった。そして、これは、そのまま私のセリフではないでしょうか。私たちもこの通行人や、兵士や、祭司長たちを責める立場にはおりません。それはとんだお門違いです。むしろ、この十字架の下で、イエスを仰ぐ罪人の頭がこの私なのです。
主イエスは、さんざん冒涜され、辱めを受け、仕舞には、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。(43節)」とこのように罵られます。 確かに、「神に頼っている」、信頼しきっている、それが主イエスの生き様でありました。彼らは、正確に主イエスを観察していたわけです。しかし、だからこそ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、とこのように主イエスは叫んだのです。これは、最後の最後まで愚直に神を信頼していたからこそ、零れた言葉なのです。神以外に救いはあり得ない、最後の砦であった。しかし、神は助けてくださらなかった。すなわち、ここで、示されている最も重大な局面は、神の不在なのです。「どうして神がいるのならこのような状況を許しているのか」、世の人は、人の不幸の理由を神の不在に求めるのです。そして、実際、神はおられないかのように、物事が起こっていくのです。しかし、人が自覚しようがしまいが、その不幸の只中に、神は臨在される、これがこの御言葉で示される最大の真理なのです。「なぜわたしをお見捨てになったのか」そこにこそ神はおられるのです。
今日も、死んではならない人が犠牲になっています。死んでもよい人など一人もいません。ましてや拷問や虐殺など言語道断以下なのです。しかし、歴史上最も死んではならない方が死なれた、しかも罪なき方が、犯罪人として十字架で死んだ。そこに神はおられたのです。ですから、いかなる悲惨な事態であっても神はおられる、その只中に臨在しておられる、それを今聖書は語るのです。悲惨な現実が続く今こそ、私たちキリスト者は、この十字架の主イエスを伝道するべきなのです。
そして、その神の御臨在は、主イエスの3日後の復活という事実によって証明されたのです。同様に、主イエスを信じる以上、いかに悲惨な死へと向かっても、そのすぐ後に復活と永遠の命が輝いているのです。今や、そして最終的に、人類の希望は、この福音にしか残らないのではありませんか。