2022年03月20日「栄光とこしえに神にあれ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

30節 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
31節 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
32節 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
33節 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34節 いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
35節 だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
36節 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙 11章30節~36節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「栄光とこしえに神にあれ」ローマ書11章30~36節

  本日の礼拝で、9章から続けてきました通常イスラエル問題と呼ばれています文脈が終わります。

 同時に、本日の御言葉は、このローマ書の教理編と呼ばれている部分であります1章から11章までの最終回でもあります。

まず、今までこのイスラエル問題で述べられてきた異邦人とイスラエルの救いの関係が要約されます(30、31節)。ここで大切なのは、異邦人とイスラエル、この両者の歴史的な救いの要約に「今」という言葉が繰り返されているところです。「今は彼らの不従順によって憐れみを受けています(30節)」、これは、旧約時代からのイスラエルの不従順によって、異邦人が憐れみを受けることになった歴史的経緯です。そして次の「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっています(31節前半部分)」、これは、救いがイスラエルから異邦人へと向けられたパウロの生きているまさに今この時であります。さらに、その後、「それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです(31節後半部分)」、これは、終末であります主イエスキリストの再臨の時までに実現する希望です。つまり、古の旧約時代、そして新約の今、さらに来たるべき世の終わりの時、これが全て「今」という時制に統一されているのです。これが、聖書的な信仰の時制と言えまして、ここで言われていますこの「今」とは「神の時」とこのように理解してよろしいでしょう。主なる神様が、時間に支配されるのではなく、時間が主なる神様に支配される、これが聖書の、そして私たち信仰者の立場であり、聖書の御言葉は、常に今、私に向けられ約束されている神の言葉なのです。これが信仰者の強さの秘訣です。たとえ最も大切なものを失っても、たとえ癒されようのない悲しみや、取り消されない罪や恥を背負っていても、神の言葉によって解決されないものが果たしてあるでしょうか。ないのです、一つも。御言葉の光に照らされた時、私を苦しめてきたあらゆることがもはや問題ではなくなる。この全聖書が、私たちの今を照らす光である以上、私たちは勝利者であり、希望に満ち溢れているはずです。

パウロにとっての最大の苦しみは、同胞であるイスラエルの不従順であり、彼らの滅びであったのです。しかし「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。(31節)」、とこのようにパウロは、その同胞の滅びという最大の苦しみを、神の時である「今」に委ねて、希望に逆転させているのです。ここでは、神の時である「今」という同じ時制の中で、イスラエルの滅びが救いへと逆転する、という全くあり得ない事態が起こっているのです。この時間さえも支配される神への信仰、全能者への信頼、これが最終的にイスラエル問題を解決しているわけなのです。

私たちを常に襲う最大の苦しみもパウロと同じではありませんか。それは家族や親しい友、同胞の救いです。それを解決する唯一の手段は、「神の時」を信じることです。私たちが不可能なことも神はしてくださる。神を私たちの物差しで測ってはなりません。私たちがなすべきこと、それは、今もそして永久までも変わらぬ御言葉に立ち、そして全能者を信じてひたすら祈り続けること、これです。

 さて、最大の課題であるイスラエル問題を解決したパウロの口からは、神賛美だけが溢れ零れ落ちます(33~36節)。この賛歌でもパウロは、御言葉を引用します。特に、「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。(35節)」、これは、旧約聖書ヨブ記からの引用でありまして、パウロが、イスラエル問題の最後に、このヨブ記を引用して賛美をしたことが、非常に大切であります。

ヨブ記は、「義人の苦難」、これがテーマになっていまして、義人ヨブが突然全財産と家族を失い、死ぬほどの痛みを与えられた、この理不尽さを解明しようとヨブと友人たちが議論を展開していく、その記録です。「神がいるのなら、どうしてこのような酷いことが起こるのか、どうして神はこの悲惨な事態を許されているのか、」これがヨブ記を貫く切実な問いかけです。しかし、結局わからないのです。その明確な回答は与えられない、それがこの問いかけに対する回答なのです。しかし、それがわからない時にもひたすら全能者を信じよ、それがヨブ記が語る最重要使信です。

 全てを一度に失った時ヨブは言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。(ヨブ1:21)」ヨブは、最悪の現実を、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」、この神賛美に変えているのです。パウロも全く同じです。イスラエル全体の救いどころか、同胞に命を狙われている、というその欠片さえも見いだせない現実にあって、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(36節)」、とこのように神を賛美しているのです。

今、私たちの突き付けられているこの世の現実から、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」、これをどうやってこれを説明できましょうか。できないのです。私たちの時代もヨブやパウロの時代と同様に、「どうして神はこの悲惨な事態を許されているのか、」という現実が目の前に映し出されます。

ウクライナの地で今起こっていることは一体何でしょうか。「どうして神はこの悲惨な事態を許されているのか」、これはキリスト者であっても浮かんでしまう疑問です。しかし、その現実にあってもただ神を信頼し、神賛美を絶やさないのが、私たちキリスト者ではありませんか。

ヨブは、全てを一瞬で失った痛みと悲しみを、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」、この神賛美に変え、パウロは、彼の最大の苦悩である同胞の救いを、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」、この神賛美に変えた。私たちはどうでしょうか。私たちに与えられている苦しみや悲しみを神賛美に変えていますでしょうか。順境にも逆境にも私たちの口に神賛美がありましょうか。ローマ書の教理編(1~11章)を終えるにあたって、今この私たちの信仰が問われているのではありませんか。

 もう40年ほど前に、一人の牧師婦人が若くして癌で天に召されました。この牧師婦人が天に召された後、彼女の癌との闘病生活を綴った日記が、新教出版社から出版されました。「わが涙よ、わが歌となれ」というタイトルです。この作品名は、彼女が、最後の主日礼拝に出席できた、その主の日の日記に綴られた詩からとられたものです。次のような詩です。

  「わがうめきよ、わが賛美の歌となれ わが苦しい息よ、わが信仰の告白となれ

  わが涙よ、わが歌となれ 主をほめまつるわが歌となれ」

  この信仰者は、死を目前にして、それでも尚、今残されている全てのものを総動員して神を賛美しようと願っている、戦っている。彼女もまた、苦難を賛美に変えて、最後まで神に従っているのです。これがキリスト者ではありませんか。私たちの目の前にどのような困難が置かれていましても、いいえ、今苦しみや悲しみの頂点にありましても、その苦難を賛美に変えて歩む、これが私たちの務めであります。その時私たちも「栄光とこしえに神にあれ」と天を仰ぐ者にされるはずであります。