2022年03月13日「取り消されない恵み」
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取り消されない恵み
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- 新井主一 牧師
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ローマの信徒への手紙 11章25節~29節
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聖書の言葉
25節 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
26節 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。
27節 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
28節 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
29節 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
ローマの信徒への手紙 11章25節~29節
メッセージ
説教の要約
「取り消されない恵み」ローマ書11章25~29節
9章から始まりましたイスラエル問題の文脈が、今週と来週で終わります。ここは、イスラエル問題の結論であると同時に1章~11章の終わりまで続いたローマ書の教理編の結論部分ともいえます。
その教理編の結論部分に相応しい大切な言葉が、まずここで登場します。「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい(25節)」、とあります、この「秘められた計画」この言葉です。これは、神の救いのご計画でことであることは間違いないのですが、ギリシア語で μυστήριον(ミュシュテリオン)と読む字でありまして、英語のあのmystery(ミステリー)の語源になった言葉で、奥義、或いは秘密、とも訳せます。実は、ローマ書では、ここで初めて出て来まして、この教理編の結論に来るまで、大切に取っておいたようにさえ思えます。特にパウロは、このローマ書とほぼ同時期に執筆されたコリント書の非常に大切なところで、神から委ねられた福音そのものを指して、「秘められた計画」、この言葉を使っています。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(Ⅰコリ2:1、2)」、この「秘められた計画」、これが同じ言葉です。そしてパウロは、この「秘められた計画」の内容として、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」、とこのように明言しているわけです。ですから、「秘められた計画」、これは神の救いの御計画でありますが、それは、キリストの十字架そのもの、或いは十字架と無関係には全く成り立たない、そう言う御計画です。
面白いことに、その上でパウロは、「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」、とこのようにコリント伝道を回想しています。つまりパウロにとって、彼が使いこなしていた言葉や知恵の全てが、取るに足らないものであったのです。ですから、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」、とここでパウロが言います時、今までこのローマ書で彼が操ってきたレトリックを「優れた言葉や知恵」だなんて、これっぽっちも思っていないのです。パウロにとって、神の秘められた計画に比べれば、彼のレトリックなどどうでもいい話なのです。「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」、と本人が言っているわけですから。説教者は、御言葉の引き立て役に過ぎません。大切なのは、「神の秘められた計画」である十字架のキリストだけであります。私たちは、パウロと共に、「神の秘められた計画」という重大問題の前に、私たちの言葉や知恵のようなものが、いかにつまらないものであるかを弁えなければなりません。
その上で、「神の秘められた計画」の内容として、「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。(28節)」とこのイスラエル問題で繰り返し示されてきた神のご計画が結論として示されます。
「福音」というのは、主イエスの十字架による罪の許しであり、永遠の命の宣言です。イスラエルは、他でもない彼らの救い主であるはずのこの主イエスに見事に躓きました。それゆえ、救いが、異邦人のものとされたわけです。しかし、イスラエルが躓いたことは、彼らの決定的な滅びには至らない、それは、「神の選び」は決して無効にはならないからです。「先祖たち」、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブと神が結ばれた契約は、決して破棄されないからです。今までイスラエル問題で示されてきたのは、この神の主権とそのご計画の不変性、そして何よりも憐れみでありました。ですから、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(29節)」これがイスラエル問題全体の結論と申し上げてもよろしいでしょう。9章から続いてきた議論は、結局ここに集約されてしまうからです。「神の賜物と招きとは取り消されない」、だから神に招かれた以上必ず罪人は救われるのです。
ここで、「賜物」、そして「招き」、と非常に大切な言葉が出て来ます。これらは、このローマ書の教理編であります11章までの御言葉を締めくくるのにふさわしい言葉であります。この両者は、いずれも、このローマ書の教理編のクライマックス部分のキーワードとされているからです。
まず「賜物」、これはギリシア語では、「カリスマ( χάρισμα)」という言葉でありまして、私たち信仰者が神から与えられる賜物、ギフトであります。御言葉を語る賜物、賛美をする賜物、奏楽者、祈る者、会計担当、と教会での働きは全てこの「カリスマ」に他なりません。しかし、以前このローマ書の5~6章を学んだ時に教えられましたが、それ以上にこの「カリスマ」であります神様のプレゼントは「永遠の命」なのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(6:23)」、この「神の賜物」、これが「カリスマ」です。実に、私たちは、死んでそのまま滅びるのが当然でありました。それが私たちに相応しい報酬のはずです。しかし、ただ主イエスの十字架によって、それが逆転してしまったのです。主イエスが私の代わりに死んでくださったので、私は生かされる、という驚くべき逆転が起こったのです。そればかりか、本日の御言葉では、この「神の賜物」、すなわち永遠の命は、「取り消されない」、私たちのこの救われた立場がひっくり返ることはない、これまでもが改めて確約されて、教理編を締めくくるのです。
もう一つの言葉が、「招き」であります。これも、「賜物・(カリスマ χάρισμα)」と同様に「取り消されないもの」である、と約束されています。この「招き」、という言葉は、通常「呼ぶ」、と訳されている動詞から派生した言葉でありまして、聖書におきまして神の招きを意味する非常に大切な言葉です。
改革派教会の教理用語に有効召命というものがありますが、まさにこの有効召命が、ここで言われています「招き」であります。特に大切なのが、この「招き」が、ローマ書ばかりか新約聖書全体の福音の頂点と言われていますローマ書8章でなされている約束の対象としての信仰者を指すために使われているところです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(8:28)」この「御計画に従って召された者たちには」、の召される、この言葉です。
神の御計画に従って召された以上、私たちは、万事が益となるように共に働くということを知っている、この御言葉に励まされなかったキリスト者が一人でもいるでしょうか。そして、それだけでなく、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」、と御言葉が言います時、「万事が益となるように共に働く」、それは取り消されない恵みである、これが約束されているのです。
キリスト者でありましても、どうしてこうなってしまうのか、と頭を抱えることがあります。私たちは、今まで何度もそのような経験をしてきました。今もこれからもそうです。しかし、その一つでさえ、私たちの益にならないことはないのです。たとえ私の罪が招いた報いのように思えるものでさえも。ここにキリスト教信仰だけにしかない力があるのです。私たちキリスト者の役割は、苦難にある今こそ、「万事が益となるように共に働く」、この信仰に立って「永遠の命」を生きることであります。