2022年03月06日「異邦人への警告Ⅱ神の慈愛と峻厳とを見よ」

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異邦人への警告Ⅱ神の慈愛と峻厳とを見よ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 11章19節~24節

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19節 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
20節 そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られ、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
21節 神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。
22節 だから、神の慈しみと厳しさとを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。そうでなければ、あなたも切り取られるでしょう。
23節 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるからです。
24節 もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
ローマの信徒への手紙 11章19節~24節

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説教の要約

「異邦人への警告Ⅱ神の慈愛と峻厳とを見よ」ローマ書11章19~24節

先週に引き続き、本日の御言葉も救われた異邦人に対する勧告が示され、次週からこのイスラエル問題の最大のテーマと言えますイスラエルの救いに光が当てられます。ここでは、先週から続いているこの異邦人への警告に結論が出されます。「神の慈しみと厳しさとを考えなさい(22節)」(口語訳:「神の慈愛と峻厳とを見よ」)これです。この警告から二つのことを確認しなければなりません。

 一つは、自分の好みで神の像を描いてはならない、ということです。

 第三次世界大戦という恐ろしい言葉が、一層現実的な響きを持って目の前に突き付けられています。このような時こそ、私たちは、御言葉に立って歴史に学ばなければなりません。

先の大戦で最後までナチスと戦い、39歳と言う若さで絞首刑に処されて、天に召されたドイツのボンヘッファーという牧師がおりました。彼は、神の峻厳を語らない福音を「安価な恵み」として、次のように言い残しています。「安価な恵みは、悔い改めのない赦しの説教であり、教会的訓練のない洗礼であり、罪の告白のない聖餐であり、個人としての懺悔のない赦しの宣言である。安価な恵みは、主に従うことを要しない恵みであり、十字架のない恵みであり、人となりたもうた生けるイエス・キリストのない恵みである。」戦争の中で、一切信仰的妥協をしなかったキリスト者の視点です。

ドイツのプロテスタント教会の多くが、ナチスにコントロールされてしまった、それは、ドイツキリスト者運動に流されたからです。彼らは、旧約聖書を否定し、新約聖書の一部から自分たちの都合に合わせて福音を曲解し、ユダヤ人を排除したのです。「枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった(19節)」これほど、ナチスの仕組んだ、ドイツキリスト者運動に都合のよい立場はなかったでしょう。この運動の許で、多くのプロテスタント教会が、ドイツ人が優秀な民族であるとするナチズムの世界観や政策に迎合したのです。ボンヘッファーは、その正体を見破っていたわけです。安価な福音は、戦争にも加担する害悪にもなりうるのです。

 日本の教会も先の戦争に抗うことができず、かえって加担してしまった、これも、神の峻厳に目を向けず、都合のいいように御言葉を曲解したからです。神の言葉が、宮城遥拝、或いは神社参拝を認めるはずがありません。そして、これは私たちにも決して無関係ではありません。むしろ、現在ほど神への畏れがない時代はないのではありませんか。それは相変わらず、聖書全体の中で、都合のよいところばかり目をとめようとするからです。もっと簡潔に申し上げれば、聖書全体の中心であり、全聖書の要約ともいえますキリストの十字架の理解が足りないからです。十字架は神の愛のクライマックスであり、この十字架によって、私たちの全ての罪が帳消しにされました。しかし、同時に、十字架は神の怒りのクライマックスであり、尊き神の御子が血を流されたのです。「神の慈愛と峻厳とを見よ」、これはすなわち「十字架を見よ」、ということです。神の慈愛ばかり強調し、仕舞には神から怒りを取り去るのなら、それはキリストの十字架を骨抜きにすることであり、福音ではありません。

 本日の御言葉で、「神が自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたを容赦されないでしょう。(21節)」と容赦しない、という言葉が繰り返されています。これは惜しまない、とも訳せまして、ローマ書でもう一回だけ使われています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(8:32)」このその御子をさえ惜しまず死に渡された方は、とあります、この惜しまず、この言葉です。

 神は、イスラエルも、異邦人である私たちも容赦しない、しかし、最も容赦しなかったのは誰でしょうか。それは、その御子であるキリストなのです。そのキリストの十字架が与えられた以上、私たちに、「御子と一緒にすべてのもの」、すなわち永遠の命と神の国そのものを「賜らないはずがありましょうか」、とここまで約束されているのです。それでも尚、私たちが故意にこれを放棄し、この神の憐れみにとどまらないのなら、神の峻厳は私たちに向けられる、と聖書は言うのです。実は、神の愛ばかり強調して、甘い神の像を作り上げて民衆の支持を得る、これは旧約時代から変わらない偽預言者の常套手段であり(エレミヤ6:14、ミカ2:7参照)、昔も今も、私たち信仰者が最も警戒しなければならないサタンの罠なのです。ボンヘッファーが「主に従うことを要しない恵み」と警告した見せかけの福音は、人間中心の土壌をこしらえ、「神の慈しみにとどまる」ことさえ曖昧にいたします。

 では、2つ目、この「神の慈しみにとどまる」というのは具体的にどういうことなのでしょうか。

 この「慈しみ」という言葉が大切でありまして、この言葉は、新約聖書で10回ほどしか見られませんが、全てパウロが使っていて、信仰義認の使徒パウロの言葉である、とこのように申し上げてよろしいでしょう。実は、ローマ書で、この言葉が繰り返されているところがあるのです。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(2:4)」この「神の憐れみ」の「憐れみ」、この言葉と「その豊かな慈愛」、この「慈愛」という言葉です。「神の憐れみ」、それは、「あなたを悔い改めに導く」、ということなのです。ですから、「神の慈しみにとどまる」というのは、まず具体的に悔い改めることである、とこのように聖書は言っているのです。「とどまる」、と言いますとじっと動かないように思えてしまいますが、逆なのです。「神の慈しみにとどまる」、これは積極的に悔い改めという行為を生み出すのです。

そればかりではありません。悔い改めは、必然的にその果実を生み出します。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤ書5:22、23)」、これは、いわゆる徳目表と呼ばれるキリスト者の信仰生活で実現していくよきわざのリストです。これらは、聖霊の結ぶ実であり、言い換えますと悔い改めの信仰生活の実り、と申し上げてよろしいでしょう。ここで「親切」と訳されている言葉、これが「慈愛」、或いは「慈しみ」、とローマ書の方では訳されている言葉です。驚くべきは、神の憐れみから私たちに注がれた慈愛が、私たちの善きわざの一つに数えられているということです。こんな弱い者が、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、この新しい生活に目を向けることがいつも許されている。キリスト教信仰とは、すなわち新しい生活の連続であります。

 新しい生活、いい響きではありませんか。特に、春の香りが漂うこの時、新しい生活に目を向けることが許されている、この福音を噛みしめたいのです。勿論、これをすべて行うことができる者などいませんし、これが出来ないから救われないわけでもありません。むしろ主イエスがこれをすべて実現してくださったから、私たちは不完全であっても、あたかもこれをすべて行っているかのように、永遠の命が約束され、天国にご褒美まで用意されているのです。神はこれほどまでに私を忠実な者とみなして、信用して遣わしてくださっている、この憐れみに目を止めたいのです。

 今日、受難節の中、この春の最初の聖餐式に与ります。主イエスの十字架の肉と血とを私たちがいただくその時こそ「神の慈愛と峻厳とを見よ」この御言葉が響き、立ち上がるはずであります。