2023年07月16日「神を恐れるか、人を恐れるか」
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神を恐れるか、人を恐れるか
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 14章1節~12節
聖書の言葉
1そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、
2家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
3実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
4ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
5ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。
6ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。
7それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。
8すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。
9王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、
10人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
11その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。
12それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。マタイによる福音書 14章1節~12節
メッセージ
ここには罪をもった人間の醜い姿がこれでもかというほど描かれています。詳細にはこれからお話ししますが、違法な結婚をし、それに対する批判を力で取り除こうとし、宴会の席で軽はずみな誓いを立てて、面子を気にするがためにヨハネを殺す羽目になったヘロデの姿。洗礼者ヨハネに対する憎しみを抱いて、彼を殺すために自分の娘を利用するヘロディアの姿。そして、華麗な舞を踊る少女の手に生首が手渡される残酷さ。罪によって堕落した世界の悲惨さが凝縮されたかのような宴会の場面が、ここには描かれているのです。
どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。その背後には、時の権力者「領主ヘロデ」の惨めな恐れが見え隠れしています。
「王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた」。(9〜10節)
このヘロデの対応は、彼の性格を最もよく表していると思います。彼はヨハネを実際に殺害することについては、本当は不本意で、内心では動揺したのです。それなのに、客の手前で、誓ったことを取り消すのは恥をかくことになるので、結局これを実行に移したわけです。
「心を痛めた」とありますから、ヘロデはもしかしたらヨハネに対して心のどこかでは「この人の言っていることは正しい」「この人は神の言葉を語る預言者だ」という認識をもっていたのかもしれません。一方で「ヨハネとは自分を批判してくる邪魔者で、排除したい」と思いながらも、他方「この人は神の言葉を語る預言者だから、手にかけるのはよくないのではないか」という躊躇いがあったのではないか、と思うのです。
しかしながら、ヘロデ・アンティパスは、父親に似て、人をとても恐れる人物でありました。その、人に対する恐れが、僅かに残っていた良心を踏み越えて、ヨハネ殺害へと踏み切らせてしまいます。彼は「一旦誓ったのと、列席している人たちの手前」と、人前を気にしているのです。彼にとっては神を恐れるとか、正しいことであるとか、真実であるか、ということは問題になりません。この、神に対する恐れの希薄さ、そして人間に対する恐れの根深さが、今回の事件を引き起こした根本的な原因だと言うことができるでしょう。
何が正しいことで、何をまことの価値基準とするか、それは私たちは神様に教えていただくしかありません。私たちが「これが正しい」と思うもの、価値観や人生観、倫理の基準はまちまちです。多様性の時代とも言われます。それ自体は良い側面もありますが、どんなに多様化されても失ってはならない基準があることは覚えておかなければならないと思います。何よりも、自分の思いではなく、神様の言葉に耳を傾けること、そして何が神様の御心であるのかを求めて、祈り求めること、これが、「神を恐れる人」として私たちが歩んでいく第一歩なのではないでしょうか。