2023年07月09日「信じて受け入れるさいわい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

信じて受け入れるさいわい

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章53節~58節

聖句のアイコン聖書の言葉

53イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、
54故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。
55この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
56姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」
57このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、
58人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。マタイによる福音書 13章53節~58節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様の故郷ナザレの人々は、その教えを聞いて「驚」きました。「こんなことは今まで聞いたことがない!」という驚きがあったのです。ところが、ナザレの人々は、イエス様に「つまずいた」のです。「つまずいた」とは、「信仰に入ることができなかった」ということです。

 ナザレの人々は、イエス様の故郷の人間ですから、イエス様のことは昔からよく知っていました。イエス様が福音宣教の働きを始めるまでおよそ30年にわたって、小さな村の小さなコミュニティの中で一緒に過ごしてきたのです。それゆえ、イエス様のことは昔からよく知っているけれども、昔からよく知っているゆえにその「イエス様こそが、信仰の対象である」という発想が思いもよらないことだったのです。ナザレの人々が見ていたのは、イエス様の人間としての側面だけでした。「この人は大工の息子ではないか」も、母や兄弟、姉妹について言及しているのも、彼らが人間イエスだけを見つめていることの現れです。

 確かに、イエス様はごく普通の家庭環境で育てられましたし、人間として地上の歩みを全うされました。それ自体はとても重要なことです。なぜなら、イエス様がもし人間としてのお姿をとられずに、ただ神としての性質だけをもっておられるのだとしたら、十字架と復活は私たち人間とは何の関係もない出来事になってしまうからです。

 けれどもそれがイエス様の全てなのではありません。イエス様は神の独り子であられました。神の御子でありながら、へりくだって地上の低い姿の中に来られました。罪人である私たちの罪を十字架の上で贖い、救いに至らせるためです。イエス様はご自分は罪を犯すことがありませんでしたが、ご自分の罪のためではなく、私たちの罪のため、父なる神様の御心に従って歩まれたのです。

 イエス様が神の御心について話しをしておられるのに、一緒に生活してきた30年間の話しをしても仕方ないことです。イエス様が本当に伝えようとしていることが何なのか、そこに耳を傾けないと、イエス様のことを本当に知っていると言えるものではありません。さらに言うと、神の御子イエス・キリストは、私たちの知識に収まるようなお方ではありません。イエス様がご自分を証しする御言葉に真剣に耳を傾け、御言葉と共に聖霊が働いて、そのときに私たちはイエス様のことがわかるのです。

「人々の不信仰に対して、あまり奇跡をなされなかった」ということは、求める人には応じてくださることの裏返しです。私たちは、イエス様の口から神の言葉が語られるときには、自分の考え、自分の常識を乗り越えて、もっと神様に近づくように、もっとイエス様に近づくように、謙遜に、そして真剣に、耳を傾けなければなりません。そうするときには、もっと大きな恵みをいただけるのです。私たちには思いもよらないような大きな祝福を、大きな恵みを、奇跡を、神様は用意してくださっているからです。