2023年06月18日「神の裁きへの恐れと希望」

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神の裁きへの恐れと希望

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章24節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

(中略)

36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」マタイによる福音書 13章24節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 24節から神様の地上支配(天の国)について、通常「毒麦のたとえ」と呼ばれる譬え(たとえ)話が始まります。

 この譬えについては、後半36節以下でイエス様ご自身が解説しておられますように、良い種を蒔くひととはイエス様のこと、畑はこの世界のことです。イエス様はこの世界に良い種を蒔かれます。良い種とは、神の国に所属する人たちのことです。天国のメンバーと言ってよいでしょう。それに対して毒麦とは悪い人たちで、その毒麦を蒔いた敵とは悪魔のことです。つまり、この世界には天国に属する人たちと、悪魔に属する人たちがいて、「刈り入れのとき」つまり世の終わりの時には両者がふるい分けられるのです。

 しもべたちが毒麦に驚いて「今すぐ行って抜き集めておきましょうか」と言ったのに対して主人は「いや、待ちなさい」と、「毒麦を集める時に、麦まで一緒に抜くかもしれないから、刈り入れの時までそのままにしておきなさい」と命じました。先ほど申し上げたように、この譬えで表現しているのは「畑は世界」です。ということは、この世界に悪が紛れ込んでいるのに対して、神様は急いで刈り取るわけではなく、この世界に悪魔の働きが入っていることを承知の上で、「刈り入れ」すなわち世の終わりまではそのままにしておられるわけです。

 なぜでしょうか。それは、譬えの中にある主人の言葉でわかりますように、毒麦が今、そのままにされている理由は、良い麦を守るためです。「良い麦まで一緒に抜き取ってしまうかもしれない」つまり、最優先されていることは、間違っても良い麦を抜き取ることがないようにする、ということです。

 もしこの世界でそんなことが起こってしまったら、失われるのは本来救われるはずだった人です。神様は、一本の麦も失うことのないようにされます。それもそのはずです。ルカによる福音書15章で、100匹の羊のうち1匹でも迷子になったら必死に探す、という譬えがあるように、また続けて放蕩息子の譬えがあるように、私たちのうちのただ一人でも失われてほしくないと心から願って、私たちのことを愛しておられるのが神様の御心です。私たちに失われてほしくない。もし、私たちのうち誰かが「あいつは悪い奴だから滅ぼしてしまおう」と言って、神様のみもとから引き離してしまったら、それを神様はどんな思いでご覧になることでしょうか。良い麦を引き抜くことのないように、神様は今、忍耐しておられるのです。終末の時、刈り入れの時まで、忍耐しておられるのです。

 その意味で、この譬えは、確かに世の終わりにおける神様の裁きを語っていて、その裁きに対する恐れを抱くものですが、それと同時に、御国の子らにとっては希望となるものです。譬えの中心は「主人が、良い麦を守る」という点にあるからです。神様は、この世の悪を配慮なく放置されているのではなくて、終わりの日に正しい裁きをくだされます。そのとき、イエス・キリストを信じて、イエス様の救いによって「正しい」とされている人たちは最後43節にあるように「太陽のように輝」かせてくださるのです。