2023年05月28日「聖霊によって生きる」
問い合わせ
聖霊によって生きる
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
ガラテヤの信徒への手紙 5章16節~26節
聖書の言葉
16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。ガラテヤの信徒への手紙 5章16節~26節
メッセージ
本日は、聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝として、礼拝をささげています。
「ペンテコステ」は、一般的にはあまり馴染みがないかもしれません。教会の記念日としては、なんと言っても主イエスのご降誕を祝うクリスマスがよく知られています。また、主イエスの復活を祝うイースターについても、近年では教会に馴染みがない方にも知られてきているような印象があります。ペンテコステは、クリスマス、イースターに並んで、キリスト教会にとって大切な記念日で、「キリスト教会の誕生日だ」とよく説明されます。
今から約2000年前、主イエスが十字架につけられ、復活されてから50日目のことです。主イエスの約束を信じ、エルサレムに集まっていた人々の上に聖霊が降りました(使徒言行録2章)。聖霊を受けた人々は、力強くキリストの福音を証し、その日、多くの人が洗礼を受けました。キリスト者が生まれ、そこから、キリスト者の共同体、教会としての歩みがスタートしたのです。主イエスの復活を喜び祝う教会共同体としての歩みが始まったのでした。そのため、ペンテコステと言えば、教会の誕生を記念する日であり、また教会を導く神の力、聖霊なる神様のお働きを特に覚える日です。
今日は新約聖書の中から、ガラテヤの信徒への手紙をお読みしました。この御言葉は、パウロが、ガラテヤ教会の信徒に向けて書き送った手紙で、教会が抱えるいろいろな問題に対して、パウロが勧めを語るものです。ここには、聖霊によって生まれ、聖霊によって導かれるキリスト者の歩みがどのようなものか、キリスト者がどのように歩むべきであるのかが描かれています。
パウロが今日の御言葉で言いたいことは、何と言っても「霊の導きに従って歩みなさい」ということです。それは、神の霊である「聖霊」の導きに従いなさい、ということですが、続けて「そうすれば、肉の欲望を満足させるようなことはありません」とも言っています。
聖書が語る「肉」というものは、単なる肉体のことではありません。もちろん、肉体を表す場合もあるのですが、ここではそうではありません。「肉」というのは、罪によって堕落した状態のことを言い表しています。ですから、この後「肉の業」という言葉が出てきますが、肉の業とは、人が、罪の性質をもって行うこと、またその結果のことです。
そこで、今日の御言葉をもう少し読み進めていくと、パウロが二つのリストを提示しているのがわかります。ひとつは「肉の業とはこういうものだ」と言って19節以下で示しているものです。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」
肉の業のリストは、突き詰めると、「自己中心」が問題になっていると言うことができます。自分の欲望のままに生きることです。そこで神様が、そして隣人が、どのように自分を見つめているかという他者の視点がないのです。
これに対して、もうひとつのリストとしてパウロは「聖霊の結ぶ実」について語ります。22節から23節です。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
ここで注目したいことは、聖霊に従う行いについては、「業」とは言わず「実」と言っている点です。実がなるということは、その果実を生み出す「木」の存在があるということです。つまり、これら良いものについては、私たちが何かを生み出すのではなくて、私たちの背後にある木がもたらす、と言っているのです。
ここまで言うと、すぐに思い浮かぶイエス様の御言葉があります。ヨハネ福音書15章でイエス様が何と言っておられたか。それは、こんな御言葉です。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
つまり、私たちが愛、喜び、平和、寛容…と言った良いものをもつとするならば、それは聖霊が私たちをイエス・キリストという「ぶどうの木」に結び合わせてくださって、そこから豊かに得させてくださる実りであるのです。聖霊の働きの本質は、私たちをイエス・キリストに結び合わせることです。その結果、まことのぶどうの木であるイエス・キリストから、命の水が流れ込み、私たちはあらゆる栄養を受け取って育まれ、実を結びます。要するに愛・喜び・平和・寛容…といった良いものは、ただ神の恵み(恩恵)によって実を結ぶのです。
私たちは、肉の業と言われるようなことを、これまでたくさんしてしまったかもしれません。そういうものを、誰もが抱えています。けれども忘れてはならないことは、そんな私たちのために、イエス・キリストは十字架の上で命を捨ててくださったということです。そこで、誰よりも深い愛を示してくださり、私たちを喜びで満たして、平和を与えてくださいました。その意味で、霊の実のリストは、実はイエス・キリストがもっていたものだと言うことができます。私たちは、聖霊によって、キリストのものとされたことで、キリストの姿に似せられていくのです。聖霊の導きに従って生きていく。それは、ある意味で、自己中心な欲望を捨てることでありますが、別の言い方をすると、神様が与えてくださる良いものを目一杯に受け取る生き方でもあります。ひとりひとりがそうして日々新たにされて、主の恵みを目一杯に受け取って歩むとき、教会は、また私たちひとりひとりは、ますます豊かに、健やかに成長するはずです。