2023年05月07日「聖霊の力による救い」
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聖霊の力による救い
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 12章22節~32節
聖書の言葉
22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
…
31だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
(抜粋)マタイによる福音書 12章22節~32節
メッセージ
今日、ここで問題にされていることは、イエス・キリストの救いの御業の原動力が何か、ということです。
結論から言うと、イエス様の救いの御業、癒しの奇跡は、神の霊によるもの、要するに聖霊の働きだということです。
それは、私たちの救いに関してもそうです。私たちは聖霊なる神の働きがあって初めて、主イエスを信じる信仰へと導かれるのです。ところが、ファリサイ派の人たちは、私たちの救いにかかわる聖霊の働きを否定します。もっと正確には、「イエスの内に働く力は、聖霊なる神の力ではない」「むしろこれは、悪霊のかしらベルゼブルの力だ」と言ったわけです。
ファリサイ派の人々は、イエス様が悪霊を追放された(22節)のを見て、「これは悪霊のかしらベルゼブルの力だ」と言って冒涜しました(24節)。彼らはイエス様のことを認めることができないために、陥れるために言ったわけですが、結果的に彼らが否定することになったのは、実にイエス様を通して働かれる聖霊の力だったわけです。要するに、神様の力に対して「これは悪霊だ」と言ったのです。これは、聖霊を送ってくださる神様に対して「ベルゼブルだ」と言ったに等しいことです。彼らは聖書知識は豊富であったにもかかわらず、神の国が目の前に来ているのを見ても受け入れず、聖霊の働きが示されているのにも関わらず拒み、ののしり、冒涜したのです。
イエス様は「聖霊に対する冒涜は赦されない」と仰せになります(31・32節)。私たちが信じている福音は、「イエス・キリストの十字架の贖いは私たちのすべての罪を赦し、救いを与える」です。私たちが過去に犯した罪も、現在の罪も、将来犯す罪も含めて、キリストの贖いは有効のはずです。ところが、聖霊に言い逆らう罪だけは、この世でも後の世でも赦されないと言われているのです。
問題は、聖霊の働きが明らかに示されているのに、わざとそれを認めず、拒否する意識的な反抗です。ファリサイ派の人々は、この点で重大な過ちを犯していました。神の力によって人が癒やされるのを良いことと認めないで、それを悪であると言うのです。それはイエス様に対する憎悪の感情から来ているものでありましたが、このような心の頑なさが、悔い改めを不可能にし、神様に対する意図的な反抗によって、赦される機会を自ら失ってしまうのです。
私たちもまた、「聖霊を冒涜する者は、赦されない」というイエス様の御言葉を、きちんと受け止める必要があるでしょう。そして、自分の内側に働いた癒しの力に対して、これが聖霊の力によるものなのか、悪霊の力によるものなのか、その答えを持たなければなりません。
ただ、私たちが、もし自分に与えられている恵みの数々を、ひとつひとつ数え上げて(それは本当は数え切れないほどあるはずですが)、神様が与えてくださった救いを思うならば、「それが悪霊の力による」などという結論にはならないはずです。聖霊なる神様の力が、私たちのうちに働いている。その感謝に満たされるのではないか、と思うのです。