2023年03月19日「キリストのもとで安らぎを」
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キリストのもとで安らぎを
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 11章25節~30節
聖書の言葉
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11章25節~30節
メッセージ
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。28節の招きの言葉は、聖書の中でも特に有名な言葉のひとつです。
イエス様はまず「わたしのもとに来なさい」と命じておられます。「わたし」とはもちろんイエス様のことです。神の子であり、父なる神からすべてのことを任せられている主イエス・キリストのことです(27節)。そのイエス様のもとに行くことによってこそ、様々な重荷に疲れ果てている私たちに、まことの休み、安らぎが与えられる、というのです。
現代の私たちは、夫婦や親子などの家庭の悩み、職場での仕事の責任と人間関係の問題など、いろいろなストレスを抱えてイライラした気持ちをもったり、悩まされていることが多いのだと思います。「疲れている」と感じておられる方も多いことでしょう。それは体の疲れかもしれませんし、心の疲れかもしれません。私たちの心と体はつながっているので、体の疲れが心の疲れにつながっていることもあるでしょうし、逆また然りで、心の疲れが体の疲れにつながっている場合もあることでしょう。イエス様は、そうした緊張で張り詰めた私たちに「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。
イエス様は「わたしの軛を負いなさい」*と言っておられますから、「重荷を取り払ってどこにでも自由に行きなさい」と言っておられるのではないとわかります。たとえ信仰生活を送っていたとしても、私たちの重荷が全て取り払われるといったご利益が得られるのではなくて、私たちは多かれ少なかれ、何らかの重荷を抱えながら生きていかなければなりません。そのことは、多くの人が体験的に知っているのだと思います。
イエス・キリストの軛を負うとき、私たちに何が起こるのかと言うと、それは、神様につながれるということです。神様が、イエス・キリストを通して、私たちをご自身のみもとに繋いでいてくださる。罪と悲惨に満ちたこの世界の中で、「どこへでも好きに行きなさい」と無責任に放つのではなくて、イエス・キリストを正しく知り、神様ご自身を正しく知る道に向かって歩ませてくださるのです。その軛は、イエス様が仰るように「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(30節)ので、実際には私たちにとって有益で、喜ばしいものなのです。
イエス様が命じておられるもう一つのことは、「わたしに学びなさい」です。イエス様に学ぶことが、イエス様の軛を負うことの具体的な内容です。つまりイエス・キリストを信じて、その教えを聖書の御言葉から学び取りながら、イエス様に従って生きていくことです。
「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と、イエス様は私たちに保証しておられます。「キリストのもとに来る」とは、「自分一人で歩むことをやめること」だと申し上げることができます。イエス・キリストと共に歩むこと、それが、私たちにとって魂の安らぎを得る道です。
*「くびき」とは、本来は牛や馬などの大型の家畜を、飼い主の考えている方向に歩かせていくために首にかける木の枠のこと。例えば農作業などを行う際に、複数の家畜の首に固定して、一緒に決まった仕事をさせるために用いる棒状の道具。