2023年03月12日「悔い改めへの招き」
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悔い改めへの招き
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 11章20節~24節
聖書の言葉
20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
21「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
22しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
23また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。
陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」マタイによる福音書 11章20節~24節
メッセージ
イエス様は、ご自身の活動拠点であったカファルナウムとその周辺のコラジン、ベトサイダといった町々に「お前は不幸だ」と言って叱責されています。私たちはこの御言葉を読んで、その言葉の厳しさに驚くかもしれません。偶像崇拝や不道徳のはびこったティルスやシドン、ソドムの方が「まだマシだ」と言われているのです。なぜ、イエス様はこうも厳しいお言葉を投げかけておられるのでしょうか。
20節でその理由が「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので」と説明されています。「奇跡」は、新改訳や口語訳聖書では「力あるわざ」と翻訳されています。原文ギリシャ語では単に「もろもろの力」という文字が当てられています。「奇跡」と言われましたら、これまででイエス様がなさった奇跡として、病人が癒されたり、死者が蘇ったり、そういう出来事が思い浮かぶものですが、「もろもろの力」ということであれば、とにかく力が発揮されるものはこれに当てはまると言えます。
イエス様が福音宣教のためになさったことは、おもに「教え、また宣べ伝える」言葉の働きでありました。山上の説教がその典型例です。癒しに関わる奇跡もなさいましたが、これは言葉によって教えられたこと、つまり、「神の国が今ここに来ている」という福音の内容を示す「しるし」であったわけです。癒しの奇跡は、イエス様の言葉による教えと密接に関わっていて、切り離すことのできないものです。従って、20節で言っている「力あるわざ=奇跡」とは、本質的には奇跡物語そのものよりも、それを裏付ける福音の言葉、と申し上げることができます。
イエス様の御言葉こそ、決定的な「力あるわざ=奇跡」なのです。カファルナウムのとその周辺の町々は、イエス様の御言葉を聞いたのに従わなかったわけで、これが問題とされているのです。
今日(こんにち)の私たちも、牧師など説教者を通して、この「力あるわざ」に接しています。それゆえ、今日のイエス様の御言葉は「2000年も昔の町の話、私たちに関係ない」とタカをくくることは、実はできないものです。御言葉を聞いても従わず、悔い改めて心を神様に向けるのでなければ、イエス様の厳しい叱責の言葉が私たちの上にもある、と言えるのです。私たちはまず、主なる神様の裁きの日に対する畏れと、福音の御言葉を聞く厳粛さを深く覚えたいものです。
その上で、主がイエス様を通して叱っておられるのは、本当は、私たちが罪と滅びの道を歩んでほしくないからに他ならないのではないでしょうか。私たちは今日の御言葉を表面的に読んで「こわい言葉だ」と言って、それで終わってはなりません。この叱責を通して、私たちが救いに入って、永遠の命を得てほしい、生きてほしいという御心がそこにあるのです。イエス様の叱責の言葉は、決して私たちを破壊するためにあるのではなく、むしろ建て上げるためにあるのです。