2023年03月05日「笛吹けども踊らず」

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聖句のアイコン聖書の言葉

2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」



15耳のある者は聞きなさい。
16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』
(抜粋)マタイによる福音書 11章2節~19節

原稿のアイコンメッセージ

「笛吹けども踊らず」とは、17節のイエス様の言葉から来ていることわざで、その意味は、「あれこれと手を尽くして準備しても、それに応じようとする人がいない」というたとえです。私たちもそういう経験があるかもしれません。やる気を出して「みんなでこれをやろう!」と言ってみても、なかなかそれに対する反応がない。そういう経験をしたことがあるなら、ここでイエス様が言われていることの気持ちが少しでもわかるのではないか、と思います。

 11章では、イエス様が告げ知らせた福音に対して、それに躓いた人たちのことが記されています。福音書記者のマタイが最初に挙げたのは洗礼者ヨハネでした(2節〜)。さらに後半では多くの人の不信仰が浮き彫りになります(16節〜)。けれども、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」と言って、御言葉に触れる全ての人をご自身のみもとに招いてやみません。

 洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授け、救い主として迎え入れたはずの人物でありました(マタイ福音書3章)。それにもかかわらず、ここではイエス様に対して疑いの言葉を投げかけています(3節)。それは恐らく、ヨハネが思い描いていた救い主のイメージと、実際のイエス様の言動にズレが生じていたためだと思われます。ヨハネは、救い主とは「厳しい裁きをもたらして正義を実現するものだ」と考えていました。確かにそれも救い主の働きであり、その裁きは終わりの日にもたらされるものですが、しかしイエス様が最初に地上に来られた時に実現することではなかったのです。

 イエス様は、むしろ弱いものに寄り添い、貧しい罪人に対して恵みをもって働いておられました。これまでを振り返ると、イエス様は、罪人たちと食事をしたり、断食の期間にも飲み食いをして、喜びのうちに人々を招いておられたことがわかるはずです。

 イエス様はヨハネの疑問に対して、決して「お前は何もわかっていない」と非難されることなく、彼の問いを真摯に受け止めて、お答えになります(4節〜6節)。そのお答えには、旧約聖書のイザヤ書が背景にあります。

『主はわたしに油を注ぎ

主なる神の霊がわたしをとらえた。

わたしを遣わして

貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

打ち砕かれた心を包み

捕らわれ人には自由を

つながれている人には解放を告知させるために』。(イザヤ書61章1節)

イザヤは、「貧しい人に福音が伝えられる」という、まさにイエス様のお働きそのものを預言していたのです。イエス様は、旧約聖書の御言葉を通して、それがご自身のことだと示すことで、ヨハネの信仰を再び燃え立たせようとしておられるのです。

 私たちもまた、救い主イエス・キリストについて「救い主ならこうあるはずだ」と言って、自分の思い描く救い主像をイメージすることがあるかもしれません。もしそれが間違っているなら、間違っていることを責めるよりも、聖書の御言葉に基づいて絶えず検証することが肝心です。イエス様は御言葉をもって私たちに常に働きかけてくださり、ご自身をお示しくださいます。その御声を真摯に聞くことが、私たちに求められていることです。