2023年02月12日「真実の平和を求めて」
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真実の平和を求めて
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 10章34節~39節
聖書の言葉
34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
36こうして、自分の家族の者が敵となる。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」マタイによる福音書 10章34節~39節
メッセージ
イエス様は「平和ではなく、剣をもたらす」(34節)と仰せになります。剣とは、何かを切り裂いて分裂をもたらすもので、平和とは正反対のものです。この言葉を聞いたときに、むしろ「平和を与えてくださるのがイエス様ではないのか」という疑問が浮かぶのでなないかと思います。イエス様がここで言う「平和」とはどのような状態を指して、何を「剣」で切り裂くというのでしょうか。
平和という言葉は、最も一般的な意味では、人間同士の和解という意味でしょう。人と人との和解。国と国との和解。その結果訪れる平和ということです。ただし、聖書で用いられる「平和」(ギリシャ語:エイレーネー、ヘブライ語:シャローム)は、単に「戦争のない状態」というだけではなくて、もっと色々な意味が含まれています。例えば、人間個人の平穏、平安、繁栄、健康といった、人の祝福された色々な良い状態を言うこともあります。つまり、平和という言葉は、私たち人間生活のすべての恵みを言い表すものであって、これこそ神様から与えられるもの、神様の賜物です。
大切なことは、まことの平和とは、神様との正しい関係の中で与えられるものであって、神様と私たちとの関係が破れると、平和も破れる、ということです。要するに、全ての平和の基礎は神様との関係性における平和であって、その神様との関係性における平和に基づいて、私たち人間同士の平和あるいは個人の祝福が与えられるということです。
今日の御言葉でイエス様が否定される平和とは、土台とも言うべき神様との関係性を抜きにした手軽な、偽りの平和のことです。それを剣をもって切り裂くのだと言われるわけです。もちろんイエス様が、天の父なる神様のみもとから平和を携えてこの地上に来てくださったことは間違いありません。イエス様は平和の君です。けれども、それは神様との関係の正しさを抜きにした安直な平和ではありません。むしろそのような偽りの平和を剣で切り裂いて、真実の平和をもたらすために来られたのです。そのために、神様を抜きにした「偽りの平和に剣をもたらす」と言われるのです。
今日の御言葉は、弟子たちを派遣する文脈でした。それを踏まえると、イエス様は弟子たちの働きを通して、この地上にまことの平和を実現しようとされているのです。キリストの弟子となったキリスト者たちは、主イエスによる平和を携えて、人々のところに派遣されていきます。主イエスによる平和とは、何よりもまず、父なる神様との和解です。神様との和解に基づいて、人と人との平和を、そして隣人の平安を回復するために労するのです。
主イエスによる平和を受け取った上で、神様との和解を携えて私たちが隣人に接していくならば、今度はキリストに結ばれたもっと自由で大きな広がりを持つ絆が構築されていきます。私たち人間と人間を本当につなぐ絆はイエス・キリストなのです。