2023年01月29日「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」

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主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
ネヘミヤ記 7章72b節~8章12節

聖句のアイコン聖書の言葉

1民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。
2祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。
3彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。

8彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
9総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
11レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
12民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。ネヘミヤ記 7章72b節~8章12節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちの教会では、2023年度の年間標語を「健やかに成長する教会」、年間聖句を「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8:10)を掲げることとしました。

 礼拝は、私たちが送る信仰生活の中心です。私たちは礼拝を通して力をいただいているのであって、そこでいただく力は、私たちの具体的な信仰生活のあらゆる局面に生き生きとした生命力を生み出します。その生命力は、教会のあらゆる集会に流れ込んでいきますし、私たちそれぞれの日常の生活にも流れ込んでいきます。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」。まさに、この御言葉は、私たちの信仰生活の核心そのものを言い表しています。もちろんこれは、これまでもずっと、私どもの教会が大切にし続けてきた事柄でありますが、いま改めてこの御言葉を心に深く覚えることで、私たちは神様の御前に益々成長していきたいと願っているのです。礼拝の秩序に基づいて、私たち一人一人が力と祈りを合わせていくなら、そこに命が豊かに実を結ぶはずです。

 ネヘミヤ記8章は礼拝の場面でありますが、旧約聖書の御言葉ですので、簡単に背景を語る必要があると思います。ネヘミヤ記は、バビロン捕囚から帰還した(BC538年頃)イスラエルの民が、祖国エルサレムで新しい歩みを始める場面です。いちど滅ぼされた祖国はそのとき荒れ果ててしまっていましたが、イスラエルの人々は何とか「神殿」再建と、町を守る「城壁」再建を果たします。このとき城壁再建のためにリーダーとして遣わされた人物がネヘミヤです。それは大変な作業であったことが、ネヘミヤ記を初めから読んでいただければわかります。妨害を受けることもありました。けれども、ついに城壁再建を果たして、そのすぐ後に、民が喜びのうちに礼拝をささげる場面がこの御言葉なのです。

 今日の御言葉には、城壁再建のリーダーとして遣わされたネヘミヤの他に、「書記官エズラ」という人物が登場します。エズラという人物は、神の言葉である律法に精通した学者でありました。エズラの使命は、神の言葉である律法に従って、人々の生活を宗教的に秩序づけることです。つまり、荒れ果てたエルサレムで、なんとか神殿と城壁が再建されて(それはかつてのものほど立派じゃなかったとしても)、何とか生活の基盤が整えられた、というのがここまでの状況です。でも、その新しい生活を始めるにあたって、本当に人々を支えるのは、実は町を守る城壁ではなく、神の言葉であったわけです。人々の生活を守り支える心臓部は、実は神の言葉であった。その、神の言葉である律法を、荒れ果てた人々の生活を整える中心的な基盤として、人々に注ぎ込んでいく。ここは、そういう場面なのです。

 律法の言葉が朗読され、説き明かされたときに、民は皆、泣いていました(9節)。なぜ、泣いていたのでしょうか。神の言葉が語られて、喜んだのでしょうか。…そういう側面もあるかもしれませんが、彼らの涙の主な要因は、喜んだからではありません。むしろ、悲しんだからです。指導者はこのとき、「悲しんではならない」と繰り返し言います(10, 11節)。

 なぜ、悲しんだのかというと、神の言葉によって、人間の罪が明らかにされたからです。自分達たちの罪を知ったのです。律法の言葉は、単に神様が「こうしなさい」と仰った御言葉だけではなく、イスラエルの民、彼らの先祖たちの歩みが記されています。すると、イスラエルの先祖たちがどのように神様に背いて歩んできたか、つまり民の背信が、明らかになるのです。ということは、自分達が経験してきた苦難の意味もわかってくる。それは、自分たちの、人間の罪の結果だということが、律法の言葉を聞く民ひとりひとりの心に鋭く突きつけられて、深く受け止められたのです。ですから彼らは、自分達の罪を深く受け止めて悲しみ、悔い改めの涙を流したのです。

 私たちが今年、年間聖句として掲げようとしている10節は、そのように悲しむ人々に対して告げられた言葉です。彼らイスラエルの民は、礼拝を通して、自分たちを支配していた罪を思い知り、嘆き、悲しんでいました。けれども、ここで重要なことが告げられます。それは、「嘆き、悲しむことだけで礼拝は終わらない」ということです。最後には、喜びで終わるということです。指導者たちは言います。「あなたたちは確かに罪を犯して、苦難を経験したけれども、今や神に立ち返って、神の憐れみをその身に受けているではないか」「主が共にいてくださって、その喜びが告げられているではないか」…「だから、悲しんではならない」…「悲しんではならない」と、繰り返し言うのです。

 「悲しんではならない」と繰り返し言われていますように、礼拝の本質は、主を喜び祝うことにあります。それは、今の私たちの礼拝でもそうです。私たちが週ごとにささげる礼拝は、嘆きや悲しみで終わることはありません。礼拝において、私たちは「神が私たちを救ってくださる」という喜びが告げられています。特に、神の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を引き受けてくださって、十字架で贖ってくださったという福音の言葉が告げられています。

 もちろん、私たち人間の罪を悲しんで悔い改めることは必要です。真心から罪と向き合って、悔い改めることがなければ、救いの恵みはわからないでしょう。けれども今や、私たちは主イエス・キリストの十字架と復活を通して、神様からの憐れみをその身に受けています。罪赦されて、神に立ち返って歩むものにされています。私たちの礼拝は、罪を悲しむだけでは終わりません。主の恵みを受けて立ち上がる時、私たちは喜びに満たされるのです。