2023年01月15日「神の国の福音宣教」
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神の国の福音宣教
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 10章5節~15節
聖書の言葉
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」マタイによる福音書 10章5節~15節
メッセージ
イエス様は12人の弟子たちを派遣するにあたり、いくつかの注意事項をお与えになりました。イエス様は「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とお命じになりました(6節)。神様は、見失った羊をお見捨てにはなりません。飼い主のいない羊の群れのようにさまよっている同胞たちのもとに行って、断たれてしまった信仰の絆を繕いなさい、もう一度神様のみもとで生きるように招きなさい、とお命じになったのです。
異邦人への伝道の道が開かれるのは、イエス様が十字架で死に、復活されて、聖霊が使徒たちに降った後です。復活のイエス様は、この福音書の一番最後で「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました(マタイ28:19)。そのイエス様の言葉の通り、神の国の福音は、イスラエルの民から始まってまさに全世界に広がりをもつものとなりました。現代の私たちにとっては、福音を伝える相手は、ユダヤ人に留まるものではありません。全ての人に伝えられなければなりません。
イエス様は、「ただで与えなさい」(8節)と言って、何も持たずに出かけていくようにお命じになりました(9-10節)。福音は本来、神様から与えられる神様の「恵み」です。それゆえ、その提供に際しては代価なしに与えられなければなりません。これは要するに、福音を「売ってはいけない」ということです。福音宣教がビジネスに変形することがあってはならないと言っておられるのです。
ここで言われているように主イエス・キリストの恵みは、恵みとして隣人に届けられなければなりません。教会で洗礼を受けることも、礼拝に出席することも、説教を聞くことも無料です。礼拝で献金をささげますが、これは主イエス・キリストの恵みに対する感謝と献身の応答であって、「払う」ものではなく「ささげる」ものです。時々誤解されることがありますが、礼拝の献金は、そのまま牧師の給与になるわけではありません。
私たちには、神様から恵みと平和が与えられています。そしてそれは、人にも与えることができる、手渡すことのできるものです。福音を伝える相手がそれを受け取るならば、この平和はその人のもとに与えられますし、受け入れなければ、私たちのところに返ってきます(13節)。
大切なことは、私たち自身が、神様からいただいた恵みの中に生きることです。困ったときは、自分自身が「ただでもらった恵みの大きさ」を思い起こしてみたいと思うのです。それは、私たちに何か資格があったから与えられたものではありません。自分で勝ち取ったものでもありません。ただ、神様の御心によって与えられたものです。そうであるなら、誰か私たちの隣人にその平和が差し出されるとするならば、それは私たちを通して神様が働かれたということです。神様の働きに期待をして、与えられた平和を携えて、平安のうちに隣人のところへ出かけていきたいと思います。