2022年12月11日「救い主である神を喜びたたえる歌」
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救い主である神を喜びたたえる歌
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 1章39節~56節
聖書の言葉
46そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
49力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
50その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
51主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
52権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
53飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
54その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
(46~55節)ルカによる福音書 1章39節~56節
メッセージ
神様の御業を目撃し、その身に経験したマリアとエリサベトが挨拶を交わすこの場面では、この2人の母親の喜びが全体を貫いています。
ここで、マリアは神様を喜びたたえる歌、すなわち「賛歌」を歌い始めます。
この賛歌は、「私の魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46,47節)という美しい歌い出しで始まります。マリアは、「魂」や「霊」という言葉を用いて、肉体的な命だけでなく、まさに彼女の「魂」や「霊」といった全存在をかけて、全身全霊で神様をほめたたえているのです。
神様が目を留められたのは、支配者ではなく、取るに足らない貧しい者、哀れな者でありました。そのことが「『このわたし』にも目を向けてくださった」というマリアの言葉によく表れています(49節)。その神様の憐れみが広がるとき、身分の低い者が高くあげられるという地位の逆転が起こります(50-53節)。
「思い上がる者」(51節)とは、ただ社会的に高い地位や権力をもった人のことではなくて、心がおごり昂っている者です。そういう人が打ち散らされて、「身分の低い者」が高くあげられる。その「身分の低い」もまた、社会的な地位の低さではなくて、神様の前に罪人であることの低さです。神様の前に小さな、取るに足りない罪人であって、神様の憐れみにすがって生きるしかない卑しい人が、高く上げられるというのです。
なぜ、そのように言えるのでしょうか。神様の前に貧しく、自分の力では何もできないことを知って受け止める人は、それゆえに神様の憐れみに全幅の信頼を寄せる人です。自分を小さくするということは、神様をこそ大きくすることです。そのように神様を大きくして、まさに魂と霊をもって全身全霊に神様をほめたたえて歌う人は、悔い改めて神様に立ち返る人です。神様からの恵みと祝福を目一杯に受け取る人です。そういう人は、神様の御業を目一杯に受け止めるゆえに、高く上げられるのです。
マリアが歌った賛歌は、イエス・キリストのお働きを描くトーンになっています。
イエス様は「飼い主のいない羊」のようになっていた私たちへの憐れみに突き動かされて歩まれました。イエス様は、はらわたが突き動かされるような激しい思いをもって、私たちの救いのために教えを語り、病気の人を癒し、ご自身のみもとに招いてくださいました。最も権力のある神の御子であったのに、自らその座から降りてきてくださったのです。そのことが最もよく表れているのが十字架と復活です。最も高い者でありながら、空腹のまま追い返されたのです。
そのようにして私たちのみもとに来てくださったのがイエス・キリストであり、そのイエス・キリストをお迎えするのがクリスマスなのです。
私たちはアドベントを過ごしています。御子イエス・キリストをお迎えする者として、この賛美に心合わせて、神様の憐れみに心を向けましょう。