2021年08月15日「本国は天にあり」
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本国は天にあり
- 日付
- 説教
- 金原堅二 伝道者
- 聖書
フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節
聖書の言葉
3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節
メッセージ
本日17節のところでパウロは「わたしに倣う者となりなさい。また、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と語ります。ここでパウロは「模範」という言葉を使うことによって、信仰者の生き方を問うています。たとえ御言葉を聞き、キリストについての知識を蓄えたとしても、実際にその御言葉に基づいて生きていくのでなければ意味をなさないからです。
パウロが「わたしを模範としなさい」と言うとき、それは決して彼の倫理的な徳目の高さや、地位や、強さを誇って言っているのではありません。
パウロは確かに人間的に見れば生まれ育ちもよく、熱心で、誰からも非難されるところのない歩みをしてきました。けれども、そのような有利な側面はキリストと出会ってからは「損失とみなす(3:7)」ようになったのです。つまり、パウロもまた、神様から見れば私たちと変わらず、不完全で、弱さをもった者でありました。しかし不完全であるが故に、神様から与えられる賞を得るために、後ろのものを忘れ、前のものに前進を向けて走る者でありました(3:14)。
このような信仰の姿勢を見て、その人が「キリストによって与えられた」他者の賜物をよく見て倣うのであれば、教会は健全に成長していきます。
パウロが、彼自身や群れの指導者を模範とするようフィリピ教会に求めたのは、そこにフィリピ教会をゆるがせるような反対者たちがいたからです。彼らは「十字架に敵対して歩んでいる者(3:18)」たちでした。
十字架に敵対するとは、ひとことで言うならば、救いに関してキリスト抜きで立とうとする者たちであり、自分で自分の救いを達成しようとする者たちです。具体的に誰のことかと言えば、はっきりとは書かれていませんから、推測するしかありませんが、例えばユダヤ主義者たちが考えられます。彼らは律法を遵守することに固執するあまり、まるで自分の行いによって救いの達成に至るかのような極端に振れてしまいました。あるいは、ユダヤ主義者たちとは反対に、「わたしたちは罪赦されたから、あとはもう何をしても自由だ」という、極端に言えば「罪赦されたから、あとはいくらでも罪を犯してよい」という歪められた福音理解がありました。
いずれにしても、十字架による救いを結果的に否定してしまい、自分にとって都合の良い欲望を神とする(腹を神とする, 3:19)のです。こうした人たちは、この世のことばかり追い求めて、本来より頼むべきキリストの十字架に敵対する人々です。
しかしながら、「わたしたちの本国は天にあります(3:20)」とパウロは語ります。十字架に敵対する人たちに対して、「わたしたち」の信仰に生きる者は、天と結びついていると言っているのです。
「本国」という言葉は口語訳聖書や、新改訳聖書では「国籍」と訳されています。国籍が天にあるというのは、「私たちの故郷が天にあって、そしてこの地上では、私たちは、天国の市民である」ということを意味しています。それは言い換えれば私たちは天にある救いをこそ自らの救いとして、誇りとしているということです。
この地上では、いまだ救いは完成へと至っていないけれども、キリストが救い主として神の右の座についておられるところにこそ、本当の救いがあるのです。