2022年11月27日「飼い主のいない羊のために」

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飼い主のいない羊のために

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章27節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
(35〜38節)マタイによる福音書 9章27節~38節

原稿のアイコンメッセージ

私たちは、イエス・キリストを主とする神様の支配が到来したことを、御言葉によって告げられています。イエス様は、山上の説教において神の国の福音を語り、実際に人々に触れて癒しておられたとき、この地上に生きる私たちの姿がどのような状態であったのかをまざまざと見たのです。それは、飼い主のいない羊のような有様でした(36節)。

 イエス様は、群衆の悲惨な状態をご覧になりました。それは、頼るべき神を見失い、人生の方向が定まらず打ちひしがれている姿です。弱り果てて、力なく倒れている姿です。「飼い主のいない羊」とありますが、聖書における羊とは、ひとことで言うと、頼るべき羊飼いを必要としている、まことに弱い存在を言い表しています。そのような羊たちの姿を見て深く憐れまれたのです。

 「深く憐れまれた」という言葉については、いろいろなところで説明されますから、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、これはもともとは「はらわた、内臓」を意味する言葉でした。ヘブライ語的な表現で、「はらわた」は憐れみの心が宿る場所とされていたのです。このことから、「はらわた」まで動かされるような憐れみ、とのことで、それは表面的な同情にとどまらない、深い憐れみを表す表現として、聖書の中でたびたび用いられています。

 これが、イエス様の福音宣教の動機でした。この地上に生きる私たち人間の、神様から遠ざかって罪と弱さのなかでさまよっている有様を見て、深く憐れまれたのです。心の内が燃え、深く愛されたのです。福音を必要としている人たちがこんなにも大勢いる。魂が弱り果て、力を失っている隣人がこんなにも大勢さまよっている。それゆえにイエス様は、この地上に来てくださって私たちの魂に寄り添い、悲しみを喜びに、嘆きを賛美に変えるため、私たちが神様のみもとで喜んで命をいただくために地上生涯を歩まれました。イエス様は、このときも今も変わらず、憐れみをもって今ここにいる私たちを見ておられます。

 私たちは私たち自身のことを、どう見ているでしょうか。健康だと思うでしょうか。表面的にはそうかもしれません。しかし、もし抱えている苦しみの中で、頼るべき神様を知らないのであれば、イエス様はそれを「飼い主のいない羊」の姿として見ておられます。そして、そんな私たちのことを愛しておられます。愛しておられるからこそ、ご自身のみもとに招いて、私たちが1人も失われることのないように、十字架に上って私たちの罪を贖われたのです。

 そこには罪人に対する深い憐れみがあります。そして、イエス様の十字架には事実、私たちを罪からすくい上げる力があることを私たちは告げられています。キリストが十字架の上で罪を贖われたとき、そしてそのキリストに私たちが結び合わされたとき、私たちはもう、飼い主のいない羊ではなく、主に養われる羊の群れとして、新しい命に生きているのです。