2022年11月13日「信仰に応えるキリスト」
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信仰に応えるキリスト
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 9章18節~26節
聖書の言葉
18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
19そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
22イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
23イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
24言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
25群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
26このうわさはその地方一帯に広まった。マタイによる福音書 9章18節~26節
メッセージ
今日の御言葉は、救いを真剣に求めて来る人の信仰に応えてくださるイエス様の姿が描かれています。
今日の御言葉に出て来る人たちは、真剣にイエス様を求めてみもとに近づいて来た人たちでした。しかし、病の女性の場合は「触れたら治る」と考えたのであって、厳密に言えばイエス様のことを罪からの贖い主として認識していたとは言われていません。ただ、いま抱えている苦しみから解放されるように願ったのであって、イエス様がどのようなお方か、この方に従うとはどのようなことかをどこまで正確に認識していたかはわかりません。それでも、イエス様は、「苦しみから私を助け出してくださる」と信じたこの女性の思いを「信仰」と言ってくださいました。この人の信じ方が確かだったゆえではなくて、ただ神の力を求めるゆえに救ってくださったのです。
指導者の娘の場合も同じです。娘の父親は「おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言って、イエス様に望みをかけてやってきました。そして、この人が信じた通りに、娘は生き返ったのです。イエス様のもつ神の力を信じるがゆえに、神様の恵みと憐れみを受けることとなったのです。
「信仰に応える」という言い方をすると、もしかしたら私たちは、「わたしの信仰はそこまで立派でも何でもないから…」と思って後込(しりご)みしてしまうかもしれません。
けれども、イエス様が見ておられるのは、立派な言葉遣いでも、内面の清さでもありません。ただ、イエス様を救い主として求める私たちの一途な思いです。イエス様は、求めて来る人が立派だから救われるのではなくて、求める人が求めているから救われるのです。それだけは忘れてはなりません。
神様は、イエス・キリストにより頼む人を救ってくださいます。イエス様を求める人を顧みて、やさしく応えてくださるのです。どんなに絶望したくなるような状況下にあっても、私たちと出会ってくださる主イエス・キリストに希望を抱き続けていきましょう。イエス様は、罪人たちを招いて喜びの交わりをもってくださるお方であり、暗いこの地上にその喜びをもたらしてくださるお方です。
「あなたの信仰があなたを救った」。今日、私たちはイエス・キリストのこの御言葉を聞いています。私たちがもっている信仰は、神様の目から見ると、決して立派なものとは言えないのかもしれません。恵みのうちにとらえられていながら、私たちはなお罪を犯す弱い存在です。それでも、ひたむきに主イエスを求めて、主イエスの御言葉と御業を求めてこの礼拝に集まっている私たちの姿を、イエス様は確かにご覧になっています。イエス様のみもとに来る私たちの思いを「信仰」と言って喜んでくださいます。
「イエス様、助けてください」と、真剣に、ひたむきに祈り求めていきましょう。切実な求めをもって祈る歩みこそが、キリストに触れる道です。