2022年11月06日「キリスト者の新しい生活」
問い合わせ
キリスト者の新しい生活
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 9章14節~17節
聖書の言葉
14そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
15イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
16だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
17新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」マタイによる福音書 9章14節~17節
メッセージ
イエス様がマタイたち大勢の罪人や徴税人たちと食事をしておられたそのとき、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエス様のところに来て、「なぜ、あなたたちは断食しないのですか」と問いかけました。洗礼者ヨハネとは、すでに第3章に登場し、イエス・キリストが福音宣教するための道備えをし、そしてイエス様に洗礼を授けた人でありました。いわば、イエス様のことをよく理解し、その働きを助けたいと思っていたであろう人物です。そのヨハネの弟子たちが、イエス様がされていることを見て躓いたのです。
断食は、自分の罪を悲しみ、そのために神様に祈る行為です。当時はその断食が習慣化して、週に2回ほど決まった日に行われていました。この日も、本来は断食をする日だったのでしょう。悲しむべき日です。自分たちが悲しみの中にいるのに、そのすぐ横で、喜び祝って宴会をしている人たちがいたら…。
イエス様は、彼らの問いかけに対して、それを非難することなく、誠実にお答えになります。イエス様は「花婿につき添う友人など婚礼の客は、どうして悲しむことができますか」と答えられます。これは、ひとことで言えば、「イエス様が一緒におられるその時は、断食する時ではない」ということです。イエス様の弟子たちは、イエス様が共におられる間は断食すべきではないのです。
「花婿」とはイエス様のことです。イエス様は、しばしばご自分を結婚式の花婿にたとえておられます。旧約聖書には、来るべき救いの日に、主が花婿のように現れる、と預言している箇所があります(イザヤ62:5、ホセア2:20前後)。イエス様こそは、イスラエルの民が待ちに待った救い主・花婿です。その花婿であるイエス様が共におられるときは、喜びの時です。それに、普通に結婚式を思い浮かべても、そのときに暗い顔をして断食するのは場違いでしょう。「今は、救い主が花婿のように来て、一緒にいる、喜びの時」なのです。
イエス様はここから二つのたとえを用いて、救い主が既に来られて、喜びに生きる新しい生き方についてお語りになります。16節も17節も「古いものと新しいものは一緒にはなれない」ということを教えています。新しい布は洗った際に大きく縮むため、古い着物を破いてしまいます。また、新しいぶどう酒は発酵して膨張するため、伸縮性のない古い皮袋に入れておくことはできません。新しいものは、新しい器に入れておく必要があります。
つまり、イエス様としては、弟子たちは新しくされたのだから、今は断食をしないのだということなのです。古い時代と新しい時代は全然違うのであって、新しい時代には、新しい生き方をするように招かれているのです。新しい生き方をするとは、ひとことで言って、神様の恵みのもとで喜んで生きることです。
私たちは今この時も、救い主到来の恵みと喜びの時代を生きています。花婿であるイエス・キリストは、聖霊において、今私たちと共におられます。イエス様は今も私たちを、神様の恵みのもとへと招いておられるのです。