主に従う道
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 8章18節~22節
18イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
19そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
20イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
21ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 22イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」マタイによる福音書 8章18節~22節
今日の御言葉には、「イエス様に従いたい」との思いをもってやってきた2人の人物が描かれています。
1人目は、律法学者でした。律法学者とは、当時のユダヤにおいて、旧約聖書の律法を専門的に学び、人々に教える、地位のある人でした。彼は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります(19節)」と言うのですが、その覚悟はどれほどのものだったのでしょうか。
これに対するイエス様の応答は、いささかつれないものでありました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」という返答の言葉は、要するに「狐にも、空の鳥にも、休む場所がある」という意味です。これらの動物ですら、自分達の巣など休む場所があるけれども、イエス様とイエス様に従う人には「枕するところもない」、それくらい厳しい道を覚悟しなければならない、と言いたいのです。
イエス様は別のところで、「わたしに従う人は、自分を捨てて、自分の十字架を背負うように」と言っておられます(マタイ16:24)。私たちはイエス様の十字架をそのまま背負うことは到底できるものではありませんが、それぞれに与えられた重荷を背負うことが求められています。それは、「私ならどこへでもついて行ける」という過信ではなく、むしろへりくだって自分を捨てて、この道に招いてくださった主に信頼してより頼むことで成し遂げられるものなのです。自分は何者でもないと自覚して、ただキリストのみに生きていくことです。そのことを、イエス様は私たちに教えようとしておられます。
2人目は、弟子のひとりでありました。この人はイエス様について行きたいと思っていながらも、「まず、父親を葬りに行きたい」と願い出たのです(21節)。この人は父親を亡くした直後なのかもしれませんし、あるいは高齢の父を看取ってから従っていきたいということなのかもしれません。この弟子の問題点は、「まず」父親を葬って、「それから」イエス様に従おうとした点にありました。言い方を換えると、神よりも家族を優先して、主に従うことを二の次にしていたのです。そこに問題がありました。
私たちがこの地上で生きていると、大切なことはたくさんあります。家族や友人、仕事、今の生活など、守らなければならないもの、大切にしなければならないこと、それはいくつもあります。けれども、イエス様は今すぐ「私に従って来なさい」とお命じになります。なぜなら、イエス様に従う道にこそ、命があるからです。それは、地上の死で終わらない、神の御子が与える永遠の命です。神様と共に喜んで生きる命です。イエス様は、本当は私たちに命を得てもらいたいと思っておられるゆえに、厳しい口調で、真剣に語りかけます。「あなた自身も命を得るように」と語りかけているのです。
私たちに永遠の命を得させようとしてくださる主の真剣な言葉を、私たちもまた真剣に受け取って、主により頼んで歩みましょう。