2022年09月11日「病を担うキリスト」
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病を担うキリスト
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 8章14節~17節
聖書の言葉
14イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
15イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、
わたしたちの病を担った。」マタイによる福音書 8章14節~17節
メッセージ
ここには、イエス様の弟子の1人であるペトロの姑が癒された出来事が書かれています。
「姑」とは、妻の母親のことです。ですから、これを見てわかることは、ペトロは結婚して家を持っていたということです。ペトロは、第4章にありましたように、漁師としてガリラヤ湖で仕事をしているときにイエス様と出会いました。「わたしについて来なさい」との主の言葉に従って、イエスさまの弟子になり、伝道者になりました。けれども、やはり自分の家のこと、家族の生活のことなどは心にかかっていたのでしょう。
イエスさまは、ペトロ一家のところに来て、癒しの手を伸ばしてくださいました。「しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になって」「その手に触れて」くださいました。病で寝込んでいたひとりの高齢の婦人を顧みて、再び立ち上がらせてくださったのです。
ペトロの姑は、熱が去った後、「起き上がってイエスをもてなした」と書かれています。彼女は、癒しのために働いてくださったイエス様にもてなしをしたのです。「もてなす」という言葉は、直訳すると「仕える、奉仕する」という言葉です。病から立ち上がった彼女は、仕える喜びを取り戻したのでした。
イエス・キリストに仕えることとは、ペトロの姑にとっては、直接的には食事の準備をし、寝床を整える、ということでしょう。その働きのひとつひとつは小さなものだったかもしれませんが、小さな働きを通して、主イエス・キリストの御業は豊かに現れていきます。
16節と17節は、ここまでの癒しの出来事をまとめて、これはイザヤ書53章4節の成就だと証言しています。それは、次のような御言葉です。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」
ここには、来るべきメシア、救い主がどのような方であるかが記されており、マタイはこれがイエス・キリストによって実現したと語ります。つまりイエス・キリストが私たちの病を担ったと語っているのです。どういうことでしょうか。
最初の人であるアダムとエバの罪のゆえに、人は死を経験する者となりました。それに伴って病を経験する者となりました。しかしイエス・キリストを信じるキリスト者は、その先にある命をいただく者とされています。イエス・キリストの権威と力によって再び立ち上がり、新しく生きる者とされているのです。
イエス様は大勢の人々の病を癒しながら、その苦しみを担って、背負いながら歩んでいかれましたが、その歩みの行き着く先は十字架の死でありました。そうすることで、イエス様が「罪の裁き」である死をその身に引き受けてくださったのです。罪人に臨むはずだった神の怒りと呪いを、私たちに代わって全て引き受けてくださったのです。その御業によって、私たちはもう一度、神様と共に生きることができるようにされています。