キリストによる癒し -御心ならば-
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 8章1節~4節
1イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
2すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」マタイによる福音書 8章1節~4節
重い皮膚病を患っている人が、山から下りてこられたイエス様のもとにやってきました。イエス様の背後には、大勢の群衆が従っています。そのイエス様のもとにやってくるのは、それだけで大変なことでした。それは単に人混みを掻き分けるのが大変、ということではなくて、重い皮膚病にかかっている人は、当時のユダヤでは清くない者と見做されていたので、本来人前に出ることができないためです。もし、人が歩いて近づいてきたら「私は汚れています」と大声で叫んで、人を避けなければならない、とまで定められていたのです。ですから、この人が、大勢の群衆と一緒におられるイエス様の前に進み出ることは、それだけで大変勇気のいることだったのです。
この人はイエス様に望みをかけてやってきました。宗教的にも、社会的にも隔離されていて誰からも気にかけてもらえず、孤独に追いやられていたこの人が、イエス様のところに来れば何かが変わると思って、望みをかけてやってきたのです。この人は、2節によりますと、「ひれ伏して」、イエス様に語りかけました。「ひれ伏して」というのは、相手を神とあがめる行為であり、礼拝することです。イエス様を神の御子として、救い主と信じて、その御心にひれ伏すことです。
この人が背負っていたものは、皮膚病という病でした。ただ、最もこの人を苦しめたものが何だったのかは、想像するしかありません。病そのものの苦しみだったかもしれません。人間関係から切り離されたことが苦しかったのかもしれません。あるいは、神に見放されていると感じることが一番苦しかったのかもしれません。
私たちも生きていれば、同じ病でなかったとしても、様々な苦しみを経験します。私たちにとっても、孤独は本当に辛いものです。人間関係から切り離されることは辛いものです。病は、つらいものです。この人が感じていた痛みは、私たちが経験する痛みと無関係ではないと思います。
イエス様は、ご自分のもとに来たこの人を決して追い返すことをせず、深く憐れまれました。その手を差し伸べてその人に触れられました。汚れているとされていて、誰も近寄らなかった、この人に触れることをされたのです。当時、重い皮膚病の場合には、触った人もまた同じように汚れると定められていました。それゆえ、これまで誰も決して近寄らなかったのです。イエス様はその人に触れて、「あなたの汚れを、私も負う」という御心を示してくださったのです。
イエス様は、「あなたの重荷を、私も負う」と言って、手を触れてくださるお方です。そこには、私たち一人一人の存在を心から受け入れてくださる愛が現れています。単に病気を治すだけではなくて、単に清くするというだけではなくて、「あなたを愛している」それが、イエス様の御心なのです。