2022年07月31日「目を覚まして待ち望む」
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目を覚まして待ち望む
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 25章1節~13節
聖書の言葉
1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイによる福音書 25章1節~13節
メッセージ
今日教えられていることは「キリストの再臨」についてです。再臨とは、イエス・キリストが再び来られることを言います。イエス・キリストは、十字架上で死なれ、三日目に復活されてから、弟子たちにたびたびその姿を現されました。そして、40日後に天に昇られましたが、その時、弟子たちに向かってみ使いは、キリストの再臨、すなわち「キリストは再び来られる」と告げたのでした。私たちはキリストが天に昇られてから後、再臨までの間の時代を生きています。
今日の譬え話では、10人のおとめたちが登場しました。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かったというのです。結論から言うと、賢い5人のおとめたちは花婿を喜んで受け入れることができましたが、愚かな5人は予備の油を用意していなかったために、そのタイミングを逸してしまうのです。賢いおとめたちに油を分けてもらうことも許されず、最後には門を閉ざされてしまうのです。
私は初めてこの箇所を読んだときに「厳しい話だな」と思ったことを覚えています。賢い五人のおとめたちは油を分けてあげればよいのにと、思いました。また、婚礼の祝宴において、その門を開いてあげればよいのにと、思いました。聖書の教えは、教会の教えというのは、基本的に「分け合うものだ」と思っていたからです。食事を分け合う、一緒に出かけていく、同じ場所で、聖書を開く。このように、「分け合う」というイメージが強い中で、なぜここではそれができないのだろうか、と不思議に思っていました。
…確かに、これが実際の祝宴であれば愚かな彼女たちも入れてもらえたかもしれませんが、このたとえでは完全に拒否されてしまうのです。なぜ、ここまで「厳しい」拒絶を受けてしまうことになったのか。…それは、ひとことで言うと、このたとえ話を通して、用意することの大切さを教えるためであります。
この譬え話でいう「花婿」はイエス・キリストを指し示しています。初めに申しましたように、私たちはイエス・キリストが「再び来る」と言われた時を待ち望んでいます。そのときに、確かに、いま申し上げたように互いに分け合いながら、分かち合いながら持ち合わせるものというのがあります。私たちは礼拝に集い、祈りを共にします。聖書の言葉を共に聞きます。信仰を分かち合います。信仰の経験を分かち合います。共に主を待ち望みつつ、希望を分かち合います。喜び、痛み、を分かち合います。そのようにして、私たちの信仰生活はますます豊かな広がりを持っていきます。
しかし、分かち合うことのできないものもあるわけです。今日の箇所では、よくよく聖書を見ていますと、「それぞれ」という言葉が繰り返し出てきています。「それぞれ」という言葉が強調されているのです。初めは1節です。「十人のおとめがそれぞれともし火を持って」とあります。次に4節です。「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に」さらに7節「そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた」そして9節「賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』」この「自分の分」というのが、「それぞれ」です。
彼女たちの場合、ともし火を掲げ続けるために、予備の油を用意しておくことは当然それぞれがやるべきことでした。こういったことは、分け与えることができず、個人の責任に帰されることだったのです。ここでは甘えが通用しません。他の誰も担うことのできないことであるのです。
私たちの罪もそうではないかと思います。私たちの友人が、家族が、誰かが代わって引き受けてあげることができません。そうであるからこそ、私たちはひとりひとりが主イエス・キリストと出会い、そして主イエスが罪を担ってくださった、という事実を福音としてそれぞれが受け止めるのです。私たちの前には、主イエス・キリストの十字架があります。そこには、福音への招きがあります。主イエスは今もなお、私たちを、そして全ての人を招いておられます。言い方を換えるならば、私たちの前で、門はまだ開いているということです。これは定員オーバーで閉まるということはありません。私たちは招かれていますし、神様は私たちに「全ての人を招く」ように命じてさえおられます。
問題は「時がある」ということです。世の終わりのとき、人の子が、イエス・キリストが、再び来られる「時」がある、ということです。これが「いつ」来るのかはわかりません。花婿が遅れると感じるかもしれない。それも、私たちが思っているよりもずっと遅れる、と思われるかもしれない。ですけれども、備えをしていなければ、気がついてから用意をするのでは遅いのです。
私たちにできる備えとは、何でしょうか。…それは、ひとことで言って、礼拝生活を重んじる、と言ってよいでしょう。私たちが主の日の礼拝を重じているのは、まさに霊的に「目覚めている」ためです。私たちは、礼拝をささげることを通して主が来られるのを待っているのです。毎週、毎週、私たちは花婿を迎えている。こういう思いをもって集っているならば、主イエスがすぐ来られたとしても、あるいは思っている以上に遅れていると感じたとしても、私たちは何もあわてる必要がありません。
こうして、備えをして天の御国に入れられた者には報いがあります。喜びがあります。花婿を迎えて、いよいよ婚礼の祝宴が開かれて、喜びの中に置かれるのです。