2022年07月10日「人を裁いてはならない」
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人を裁いてはならない
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 7章1節~6節
聖書の言葉
1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」マタイによる福音書 7章1節~6節
メッセージ
イエス様は「兄弟」を裁いてしまうことについて語っています。私たちも他人事ではありません。神の家族として教会に集められた私たちでも、一歩間違えれば互いに裁き合い、傷つけ合うことは、十分起こりうることです。
1節で「人を裁くな」と言われた後に、「あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われています。このことは2節でもう少し詳しく言われています。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。これは自分の物差しで判断したのならば、あなたもその物差しで判断されるということです。しかしよく考えてみると、人は、基本的に自分の物差しで判断するのであって、その秤は人によって違いますから、自分が判断した物差しがそのまま自分に返ってくるというのは、人間同士の事柄としては辻褄が合いません。自分が誰か他人を判断して、その相手が自分のことを判断するときには、相手の物差しが自分に向けられるはずです。
ということは、これは人と人との間での「裁いたり裁かれたり」ということではなくて、神様によって自分が裁かれるということです。神様は、私たちが人を裁いているように、私たちを裁くのだと言いたいのです。しかも、神様が私たちを裁くときには、神様の目に映る私たち自身の問題とは、おが屑のように小さなものではなくて、丸太のように大きなものなのだということです。さらに困ったことには、私たち自身はそのことに気がついていないのです。
本来、裁きを行う方は、主なる神様おひとりだけです。ですからまず私たちが心に留めなければならないことは、他人のおが屑が気になって、「おが屑をとらせてください」と言っている私たちは、神様の目にどう映っているのかということです。目に丸太があるのです。
ここで言う丸太とは、人間の罪のことです。私たちは、自分の罪になかなか気がつくことができません。神様の目に、大きな罪を抱えているにもかかわらず、自分よりも相手の罪の汚(よご)れが気になってしまうのです。
イエス様は、ご自身の命を十字架の死によってささげ、私たちが目の中の丸太を取り除くための代償として与えてくださいました。「あなたの丸太を取らせてください」などと言わず、何も言わないで十字架にかかって、本来私たちが受けるべきだった神様の裁きをその身に引き受けてくださいました。このイエス様を信じるキリスト者には、裁きではなく、罪の赦しが与えられています。
私たちは、イエス様の十字架と復活によって、罪の赦しが与えられた罪人です。私たちは、聖化の途上にありますが、しかし本来は裁かれるべき存在であったことを忘れてはなりません。その私たち自身が、赦されているという福音を、ここで改めて思い起こしたいと思うのです。そして、そのように罪赦された私たちだからこそ、互いに裁き合うのではなくて、むしろ赦し合うこと、それが求められているのであり、御心なのです。