2022年07月03日「思い悩みからの解放」
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思い悩みからの解放
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章25節~34節
聖書の言葉
25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイによる福音書 6章25節~34節
メッセージ
イエス様は「だから」という言葉で語り始めます。「だから」とは、直前の内容を受けて、その上で言う、ということです。直前の内容とは、24節にありますように、「神と富の両方に仕えることはできない」というものでした。地上の富に心奪われるのではなくて、天にある命に目を向けて、それを与えてくださる神様を信頼しなさい、と言われていたのでした。イエス様は、そういう命を与えてくださる天の父がおられるのだから、「自分の命のことで思い悩むな」と言っておられるのです。ですから、「だから」という一言でわかるひとつのことは、「思い悩み」は、神様に対する信頼と深く結びついている、ということなのです。
これに関連して、ある説教者が「思い悩みは、どこから来るのか」ということで、次のことを言っています。
「思い悩みは、どこから来るのでしょう。自分が思い悩むことを考えてみればわかります。それは、自分でこうだ、と定めてしまうことから始まります。思い悩むな、任せておけ、と言われる神の御言葉に反して、確かにこうなるに違いない、と思うのです。何か事があれば、これはこうなるに違いない、と思い込むのです」。
私たちは、「これはこうなるに違いない」と思い込むことがあります。あるいは「こうなって欲しい」という願望なのかもしれません。けれども、「こうなるに違いない」と思ったとしても、その通りにならないことの方が多いのです。それが、思い悩みの引き金となることが多いのではないでしょうか。
自分の考えに執着してしまうときに、思い悩みで苦しんでしまいます。ということは、自分が全能ではないと弁えることが必要なのだと思います。自分が全能ではないと弁えるとは、神様のお考えに身を委ねて、そこに恵み深いお計らいがあることを信じこと、要するに全能の神様を信頼するということです。
もちろん、イエス様がこれをお語りになった2000年前のパレスチナと現代の日本は、置かれている環境も文脈も違います。けれども、この御言葉のメッセージがストレートに聞こえてくるということは、それだけ「思い悩み」が私たち人間にとって、時代と場所を超えて、多くの人が抱え続けている事柄で、もしかするとそれゆえに、イエス様はこんなにも丁寧にこのことを語っておられるのかもしれないなぁ、と思います。イエス様は、私たちが悩みに身をすり減らして、生きる喜びが取り去られてしまうことを望んではおられません。そこから解放されて、神様がくださる命の喜びに生きるようにと招いておられるのです。
神様に委ねる、これが根本的に必要なことなのでしょう。神様に委ねるとは、自分の命と体が神様のものであると心から認めて受け入れることです。私たちは、イエス・キリストに十字架の上で贖われたとき、この命と体は神様のものとされました。私たちはそのことを心から認めて、大きな神様の御心の中で自分自身を見つめるようにしたいと思うのです。