2021年08月01日「キリストを知るすばらしさ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
あの犬どもに注意しなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしにはなおさらのことです。
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知るあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

2節を見ると、パウロは「あの犬どもに注意しなさい」「よこしまな働き手たちに気をつけなさい」「切り傷にすぎない割礼を持つ者たちに警戒しなさい」と立て続けに注意を促しています。これら三つの警告は、実際には一つのことを言っていて、要約すると間違った福音を語る者たちに気をつけるようにと言っているのです。その間違った福音の内容とは、割礼(旧約聖書に定められていて、男性の包皮に傷をつけるもの)を受けていないキリスト者に対して、割礼を受けるようにと主張することを指します。

 割礼はユダヤ人であれば皆受けているものでありました。ですからユダヤ人キリスト者は割礼を受けていましたし、異邦人から改宗してキリスト者になった者は割礼を受けていませんでした。要するに、教会の中に割礼を受けている者と受けていない者がいたのです。ここで、ユダヤ人キリスト者の中に、「割礼を受けている者こそが本当に救いに与(あずか)るのだ」と主張する人々がいて、彼らのことをパウロは批判しているのです。

申し述べておくべきこととして、パウロは別に割礼という儀式そのものを否定しているのではありません。パウロが否定しているのは、割礼を主張する信仰の根本にあるものです。つまり、自分の体にある外的なしるしに救いの保証を求めること、それによって「肉に頼る(3,4節)」ことが問題でした。なぜならば、私たちは自分の体に刻まれた外的なしるしによって救われるのではなくて、ひたすらキリスト・イエスを信じる信仰によって救われるからです。キリスト者は、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです(4節)」と書いてある通りです。そしてこの4節に書かれてあることが、信仰の道に生かされ、神の恵みの中に生かされている者の在り方なのであり、この信仰に生きる者こそが「真の割礼受けた者(4節)」です。

さて、パウロは「肉に頼らず」と言いますが、彼は昔から全く肉に頼らず生きていたわけではありませんでした。むしろ、パウロはキリストと出会う前は、むしろ多くの面で、肉に頼る者でした。その経験がある故に、彼は4節で「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」と言います。ですが、彼はそれを一切捨ててしまったのです。それは、決して軽いものを簡単に捨ててしまったということではなくて、極めて重いものを、キリストの故に決然として捨て去ったのです。パウロはこのような視点をもって、古い自分と、新しい自分を語っていきます。

5節「わたしは生まれて八日目に割礼を受け〜」から、6節「〜非の打ちどころのない者でした」までは、パウロ自身の家系や、彼の熱心さの観点から、パウロがいかに信心深い歩みをしており、誰からも非難されることがなかったかを語っています。これらはいずれにおいてもパウロが人間的に見れば非常に評価されるべきで、自分を誇ろうと思えばいくらでも誇れるような歩みをしてきたことを表しています。彼自身が言うようにまさにパウロは「肉に頼ろうと思えば、頼れなくもない」のです。

ところが、パウロはそれらの一切を、キリストへの信仰に入ったことによって損失だとみなすようになったのです。こんなものは「塵あくた(8節)」とさえ言っています。パウロはキリストへの信仰以前にもっていた、自分にとって有利なものの一切を捨て去ったのでした。

このように、信仰には「罪人である自分を捨て去る」という消極的な側面があります。それ故に、「では、もっている一切のものを捨て去るのが良いことなのか、捨てることが美徳なのか」と疑問を抱く方があるかもしれません。けれども、実際にはそれを遥かに超える積極的な側面があるのです。自分の「肉を頼りにできるような」つまり人間的に誇れるようなものを失うということは、確かに重いことかもしれません。多くのものを持っている人ほどそうでしょう。しかしパウロは決してそれらを惜しみながら、悲しみながら、苦渋に満ちて失ったのではなくて、「わたしの主キリスト・イエスを知るあまりのすばらしさ(8節)」ゆえに、これらを損失と見做すようになったのです。ですから信仰に入るということは、確かに罪人である自分を知り、自分の誇りを捨て去ることです。しかしそれは、自己否定だけで終わることではないのです。そうではなくて、キリストを得ることによってキリストを肯定することであり、そこにはキリストを得る喜びが溢れるものです。失ったものよりも遥かに優った喜びがあるのです。

パウロは「キリストを知ることのあまりのすばらしさ」と言いましたが、キリストを「知る」とは、単に知識として知るというだけで終わりません。卑近な例かもしれませんが、私たちが誰か他の人を「知る」という時には、ただその人の存在を知っているというだけではなくて、その人と関わりをもつ、ということを意味するのではないでしょうか。存在を知っていても自分と関わりのない人であれば「(その人のことは)知らない」と言うのではないでしょうか。

ですから、キリストを知るとは、イエス・キリストと「わたし(これを読む、あなた)」が関わりをもつということです。そして忘れてはいけないことは、キリストは私たちの罪のために世に来られて、十字架にかかって死んでくださり、復活されて永遠の命を私たちにお与えになっているということです。私たちがキリストを知るより前に、キリストが私たちを知っていてくださり、滅びることのないように罪を贖ってくださったということです。その復活の命へとキリストは招いてくださっているのであり、信仰をもつとは、この永遠の命にあずかるということです。キリストへの信仰に入って、この命に生きるようにと主イエス・キリストは私たちを招いておられます。この素晴らしさ故に、私たちはどうして私たち自身の肉を頼りとし、自分を誇ることができるでしょうか。