2022年06月12日「暗い顔を捨てて」

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聖句のアイコン聖書の言葉

16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」マタイによる福音書 6章16節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、これまで教えてきたのと同じように、断食についても、偽善者のようであってはならないと言っておられます(16節)。

偽善者の何が問題だったのかというと、自分の行いを人に見てもらおうとするところです。今回で言えば、沈んだ顔つきをして、顔を見苦しくすることで、「私はいま、断食していますよ」と、訴えかけている人たちがいたというのです。すると、断食は、その行為自体は「善い行い」とされていましたから、見た人は「あの人は立派だ。よくやっている」と評価するわけです。自分の行いを見せる人は、そうやって、人から良く見られることで満足してしまっていたのでした。

 しかしながら、イエス様は言われます。「彼らは既に報いを受けている」。「あの人は立派だね」と評価されて、それで満足しているならば、その人はもう欲しがっている報いを得てしまっているので、神様からの報いはもう受けられないのだと警告しておられるのです。

 断食はもともと、心も身体もすべて集中して神様に身を向けるために行うものでした。「食を断つ」と書きますように、ある期間、食事の全部または一部を意図的に断つことで、それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって、神様に全身を向けるための努力です。それなのに、その行いが偽善化してしまって、周りの人の目が気になって仕方ないというのであれば、これは本末転倒です。神様以外のものに向かう心を捨てる行いであるはずなのに、その結果、神様が見えなくなってしまっている。人の目が気になって、人から評価されることばかり考えてしまっている。それでは「あなたの魂にとって、何の役にも立たないではないか」とイエス様は言っておられるのです。

 今日(こんにち)、私たちの教会で断食は行われていません。個人的に断食を行う人はあるかもしれませんが、教会が積極的にこれを勧めることはありませんし、一般的にも、積極的に勧めることはほとんどないだろうと思います。

 断食は本来、悔い改めのしるしとして行われるものです。罪を認め、悲しむところから断食が始まります。しかし、イエス・キリストにあっては、悔い改めもそのまま喜びです。なぜなら、悔い改めて立ち返る私たちを、そのままで受け入れてくださる神様の愛があるからです。私たちが立ち返ったことを、神様が「一緒に喜ぼう」と言ってくださるからです。ですから、イエス様の福音を受け取った人は、ことさらに暗い顔をして嘆き悲しむのではなくて、罪の赦しを与えられた喜びと祝いに生きるのです。だからこそ、イエス様は「沈んだ暗い顔を捨てて、身を整えなさい」と言われたのでしょう。

 イエス様は今日の御言葉で断食について教えておられますが、結局、一番大切なことは、私たちの行いが本当に神様に向かって為されているかどうかです。食べるか、食べないかが問題なのではありません。日常生活で行うひとつひとつのことが、神様のことを思って為されるのであれば、豊かな報いがあります。