祈るときには③
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章9節~15節
9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
10御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章9節~15節
「だから、こう祈りなさい」とイエス様がまず教えてくださった言葉は特に神様を賛美する内容でした。父なる神様は、御子イエス・キリストを通して私たちを罪から贖い「神様の子ども」とされる恵みを与えてくださいました。私たちが祈りを通して神様を「私たちの父よ」と親しく呼びかけるのは、何よりも神様の愛に基づいています。
その神様の恵みの中で、私たちは、私たちの日常に関わる事柄をも願い求めて祈るのです。私たちは、極めて具体的な現実の生活の中で神様のご栄光を現していくのであって、日常のありふれた必要を祈るときでさえ、そこに神様の恵みが確かにあることを覚えながら、感謝をささげて神様に語りかけます。
まずは11節「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」です。「糧」とは、文字通りにはパンのことですが、もともとパンを求めるのは命のためですから、この祈りは、命のために必要な例えば住む家や着るものなどを含めて「与えられますように」と願う祈りだと言ってよいでしょう。イエス様は私たちの肉体の必要をも神様に願い求めなさいと言っておられます。なぜなら、私たちを霊肉ともに生かし支えるのは神様だからです。
二つ目は「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。私たちは自分が罪の負い目を抱えていることになかなか気がつかないものです。けれども、それはイエス様の十字架を見るときにわかります。神様は、その独り子の命を差し出して、私たちの罪の赦しのために犠牲にしてくださいました。神様の独り子が十字架にかかって死ななければならないほどに、私たちの罪は莫大な負い目となって積み上がっていたのです。それほど大きな負債を、神様は御子イエス・キリストを通して贖ってくださいました。そうやって赦されている私たちだからこそ、互いに赦し合える人間関係を築いていくように導かれています。
三つ目は「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」です。この祈りを真心から祈る人は、自分が罪の力を前に弱いことを知っている人だと思います。というのは、これは自分の弱さを素直に認めて、神様の助けをまっすぐに求める祈りだからです。誘惑にあうとき、試練にあうとき、「神様抜きで」なんとかしようとするのではなくて、むしろ手を止めて、神様と向き合って「弱い私を助けてください」と願い求めるのです。
こうした私たちの生活の、具体的なひとつひとつを祈っているときでさえ、私たちはそこにある神様の祝福、恵みの豊かさ、力強さを実感します。いま、目に見えている日常のごくありふれた風景のなかでさえ、そこに神様のご栄光が現れている、神様の力が現れている、神の国が訪れている。そのことを、祈りを通して日毎に味わうのです。