2022年05月15日「祈るときには①」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。マタイによる福音書 6章5節~8節

原稿のアイコンメッセージ

キリスト者の祈りは、明確な対象をもっています。私たちが「天のお父さま」と呼んでお話しできる、生きている神様に語りかけるものです。確かに、神さまは私たちの目には見えませんが、しかし祈りとは、不確かな存在や命のない神々に語りかける虚しい行為ではありません。生きて確かに存在する神様に語りかけるもので、そのことを通して神様との交わりを深めていきます。

 それでは、その神様と向き合って、神様と交わりを深めると申しましたが、実際のところ、私たちはどのように祈ればよいのでしょうか。イエス様は本日の箇所で、まことの祈りの姿勢をお示しになります。

 イエス様が言っておられるように、私たちの生けるまことの神様は、私たちが願う前から、私たちに必要なものをご存じです(8節)。しかし、偶像の、空しい神々はそうではありません。異邦人たちが一生懸命に祈っている異教の神々は、祈る人の必要なんてわからないのです。ここに決定的な違いがあって、それゆえに、祈る際の、祈り方が変わってくきます。「聞いてもらえないのではないか」と思っていると、くどくどと同じ言葉を繰り返すことになるのです(7節)。

 まことの生ける神様は、ご自分の内ですべて満ち足りておられるお方です。私たちが神様のために何かしてあげなければならないというようなことはありません。教えてあげなければ私たちの必要がわからないお方ではありませんし、またちゃんと祈らなければ、それと引き換えに恵みをくださらないということもありません。祈りは、神様のためにあるのではなくて、私たちのためにあります。私たちが神様を支えているのではなく、神様が私たちを支えておられるからです。

 私たちは祈ることによって、私たちの父である神様と毎日を過ごします。神様が私たちを愛して、恵みによって共にいてくださいますし、私たちもまた、神様の子どもとして素直になんでも打ち明けながら、神様と一緒に歩んでいきます。

 ですから、「神様が全てを知っているなら、祈る必要なんてないのではないか」と言われることがありますが、それはとんでもないことです。むしろこのことは、私たちが祈るときに、大きな慰めを与えるはずです。

 神様が全てをご存じだということは、私たちが祈る前から、神様は私たちが抱える問題の只中にいてくださるということです。私たちが、一人で悩んでいると思っているそのときにも、実は神様の方は、私たちが抱えている問題に深い関心をもって、憐れんでくださっているに違いないのです。そして、たとえすぐに問題が解決しなかったとしても、神様は私たちが思うより遥かに深く事柄の本質を捉えてくださっていて、乗り越えるための恵みのご計画を進めてくださっているのです。私たちはその御心を尋ね求めて祈ります。そこに深い慰めと喜びがあるのです。それならば、「神様は何でも知っておられる、私の祈ることもわかっておられる、だからこそ祈ろう」と言えるはずなのです。