天の父の眼差し
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章1節~4節
1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」マタイによる福音書 6章1節~4節
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる(1節)。
「善行」「善い行い」について、当時のユダヤ人がこの言葉でよく思い浮かべるものが三つありました。それは「施し」と「祈り」と「断食」の三つです。そこで、まずはこれらの全体に関わることとして、イエス様は善い行いの原則を告げておられます。それが、上記1節の言葉です。
1節の言葉からわかるように、人に見てもらうことを目的として善い行いをしても虚しい、ということです。それは偽善者のすることであって、「あなたがたは、見てもらうために義を行ってはならない。そんなことをすれば、天の父からの報いを受けられなくなる」とイエス様は警告しておられます。
1-4節では特に「施し」について取り上げられていますが、イエス様は、施しをするときには人前でひけらかすのではなくて、むしろ隠れて行うようにしなさいと言っておられます(3節)。なぜなら、天の父なる神様が、隠れたことを見ておられるからです(4節)。それが、私たちにとって決定的なものです。ですから私たちは偽善者のように取り繕って善い行いを演じる必要はありません。たとえ人から評価されなかったとしても、神様が報いてくださるのだから、わざわざ自分の行いをひけらかさなくてもよいのです。私たちが本当に欲しい報いは、人からの評価ではなくて、神様からの報いであるはずだからです。
神様がちゃんと見ておられるということは、私たちのことを全て究めて、私たちの内にある、善いことも悪いことも、すべて知っておられるということです。言い換えるなら、神様は、私たちの心に潜む、罪をも知っておられるのです。その神様の前で、そもそも私たちの偽善なんて通用しません。私たちのうちに潜む罪は、私たち自身ではどうすることもできません。だからこそ、御子イエス・キリストが私たちのところに来てくださったのでしょう。イエス様はラッパを吹き鳴らすことなく、ベツレヘムの馬小屋で、貧しいお姿になられて密かにお生まれになりました。そして貧しい人々に寄り添って、最後には十字架の上で、私たちの罪の赦しを実現してくださいました。
私たちはそのイエス様の十字架と復活によって罪の赦しが与えられています。これは、私たちが何か善い行いをしたから、その報いとして神様がお与えになったというお話しではないのです。私たちは、ただ神様に愛されているから与えられたのです。私たちはそうやって神様に愛され救われた者として、愛の業を行うように召されています。これが、私たちの「施し」の本質ではないでしょうか。
私たちが神様に従って善い業を行うことができるのは、神様がただ私たちを愛して、イエス・キリストを通して私たちに働きかけてくださるからです。そうやって救われた私たちが、神様から受けた愛をもって誰かに接するとき、神様はその様子を見ていてくださり、喜んで報いてくださいます。