2022年05月01日「敵を愛しなさい」
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敵を愛しなさい
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章38節~48節
聖書の言葉
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイによる福音書 5章38節~48節
メッセージ
本日の箇所ではひとことで言って、隣人を愛することについて教えられています。
このことを教えるために、イエス様は「目には目を、歯には歯を」という旧約の言葉を取り上げてお語りになります。これは旧約のレビ記24:17以下に記されている律法の言葉です。そこを調べると「目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けなければならない」と言われているわけです。
ただし、この言葉は何も、やられた人がやり返すことを肯定する律法ではありません。むしろ、復讐を抑制する律法なのです。考えてみると誰でも思い当たるのではないでしょうか。多くの場合、「やり返したい」と思うときにはやられた分を超えて、何倍にもやり返したいと思ってしまうものです。人の怒りや憎しみは放っておくとどんどん膨れ上がってしまいます。抑制するものがないと、いくらでも大きくなってしまいます。
ですから、「目には目を」という律法の言葉は、そもそも恨みを晴らしたい人が用いて仕返しをするための規則ではなくて、人間の際限ない怒りの連鎖、復讐の連鎖を抑制し、人が憎しみのあまり行きすぎた報復に走らないように抑えるための法律なのです。「やり返していいぞ」という法律ではなくて、むしろ人を憎んではならない、人を恨んで傷つけてはならない、と言いたい法律なのです。
イエス様はその旧約の律法がもつ神様の御旨を、いっそう鮮やかに、人が思いもよらない言葉で、明らかにされます。
「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。やられたら、やり返すのではなくて、むしろ倍受けなさい。
「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。取られたら、倍与えなさい。
「一ミリオン行くように強いる人がいるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。相手が求めるよりも倍、行きなさい。
徹底して相手を受け入れなさいと、イエス様は語っておられます。
「それでは悪に対してどのように抵抗すればよいのか」と思われるかもしれません。イエス様はそれについては何も語っておられません。ただ、ローマの信徒への手紙12:19-21に、
「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」
という言葉が記されています。そこに書かれてあるように、悪に対する裁きとは、神様がなさることです。神様の御心は、私たちが復讐に復讐を重ねるような、互いに傷つけ合う悲しい生き方ではなくて、主イエス・キリストに罪赦されて生きるキリスト者として、互いに愛する幸いに生きることです。それは理想論ではなくて、イエスさまがここで語っておられることは、天の御国のあり方です。神の国に生きるとはこういうことなのです。私たちの暮らすこの世の原則に照らし合わせると現実離れしているように思われるかもしれませんが、しかしここにこそ、神様の御心があって、イエス様は神の国の福音をお語りになっているわけで、イエス様は復讐や憎しみから解放されて愛によって生きる新しい歩みへと私たちを招いておられるのです。