2021年04月04日「わたしは復活であり、命である」
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わたしは復活であり、命である
- 日付
- 説教
- 金原堅二 伝道者
- 聖書
ヨハネによる福音書 11章17節~27節
聖書の言葉
17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」ヨハネによる福音書 11章17節~27節
メッセージ
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。
…主イエスのこの御言葉、皆さんにはどのように響くでしょうか。愛する者を失った悲しみの中で、マルタという一人の女性はこの御言葉を聞きました。愛する兄弟ラザロが死んでしまったという悲しい出来事の中で、彼女は主イエスの口からこの言葉を聞きました。
このときマルタを支配していたのは、愛する兄弟を失った悲しみ、「死」という現実でした。この悲しみの現実の中で、待ち受ける希望が見えなくなってしまっていたのです。命ではなく、「死」こそが、現実の全てであるように思われてしまっていたのです。
私たちは、誰か身近な人が愛する人を亡くしたときに、慰めの言葉を探すのではないかと思います。私もまた、経験があります。身近な人が愛する人を亡くしたときに、かける言葉を探しました。
しかし…ありませんでした。「言葉がない」とはこのことで、「死」という厳然とした現実を前にして、慰めの言葉がかけられず、ただ、一緒にいることしかできなかったのです。
「慰め」の言葉は、時には必要です。けれども、「死」という事実を前にして、根本的な解決にはなりません。私たち人間がかける言葉とは、なんと無力なことかと、そのとき私は思いました。
ところが、主イエスは違いました。主イエスは初めから、「慰め」を語ろうとはしておられないのです。弔問とは、残された人々のところを訪ねるものです。
しかし、主イエスは「さあ、彼のところへ行こう(15節)」すなわち、死んだはずの「ラザロのところへ行こう」とおっしゃったのです。
それは、主イエスは死を前に、決して無力ではないからです。主イエスは復活であり、命です。主イエスを信じる者は、死んでも生きます。ですから、キリスト教は、慰めでは終わりません。御言葉には力があるからです。
この主イエスの約束だけが、死という厳然たる事実を打ち破ります。希望を与えます。「主イエスは死を前に、無力ではない」のです。ですから、死に対して勝利する道は、「わたしは復活であり、命である」と言われたお方の内にある、ということなのです。
イエス・キリストは、いのちの主です。そもそも私たち人間が肉体の死を経験するのは、私たちの罪のためです。私たちはアダム以来今でも、御言葉に対して完全であることができません。主イエスはこの、私たちのために、つまり死に向かって歩む以外にない私たち人間のために、十字架につけられ、三日目に復活されました。主イエスご自身が「死」を踏み越えていかれたのです。それは私たちが、命に向かって歩む者に変えられるためでした。主なる神様は、御子イエスを信じる者に、賜物として「命」を与えてくださいます。この命は、肉体的な死でさえも奪い取ることのできない命なのです。
この、永遠の命を、主イエスが天の父から受けている命を与えるために主イエスはこの地上に来られたのです。