2021年07月25日「主にある兄弟を歓迎する」

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聖句のアイコン聖書の言葉

ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。フィリピの信徒への手紙 2章25節~3章1節

原稿のアイコンメッセージ

25節でパウロは、「わたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています」と語ります。「帰さねばならない」と言っている言葉から想像できるように、この人物はもともとフィリピにいた、フィリピの出身者でした。4章18節を見ると、パウロはこのエパフロディトという人物から贈り物を受け取っていることがわかります。つまり、エパフロディトはフィリピ教会から託されて、パウロを支援する贈り物を携えてやってきたのでした。

 パウロは彼のことを「わたしの兄弟、協力者、戦友」と言います。「兄弟」つまり信仰の友であり、「協力者」つまり神の国のために仕える同労者であり、「戦友」まさに文字通り生死を共にする間柄である、と言うのです。それくらい、全幅の信頼をこのエパフロディトに置いている。また、パウロは彼のことをフィリピ教会の「使者」とも言います。それは、自分の利益を追い求めるのではなく、ただ福音に仕えて働いているということです。それ故に、パウロはこのエパフロディトから励ましを受け、力を得ていましたし、逆また然りでした。福音に仕える信仰に生きる人は、同じ信仰者を励まし、力付けるのです。

 ところが、エパフロディトは、フィリピ教会から託された奉仕の業を遂行する最中に、死ぬほどの重病に陥りました。幸い彼は回復しましたが、フィリピ教会は彼の病気について知ることになっていたようです。エパフロディトは、教会の信徒たちが自分のことを心配していると思って心配したでしょうし、また、教会の任務をもってパウロのもとに遣わされたのに、それを十分に果たすことができなかったという挫折感をもっていたかもしれません。このような中で、パウロはエパフロディトに起こったことを、エパフロディト自身の口から知らせることができるように、彼をフィリピ教会に送り帰すことにします。それはただエパフロディト個人のためだけでなく、彼の派遣を通してフィリピ教会にパウロ自身の言葉(手紙)を届けるためでもありました。

パウロは、エパフロディトの回復を「神が憐れんでくださった」と表現しています(27節)。パウロはたびたび奇跡によって病を癒すことがありましたが(使徒14章8-10節など)、今回は奇跡による回復ではありません。つまり、奇跡であろうと、通常の医療による回復であろうと、癒やされること自体が主の憐れみだと捉えていることがわかります。病からの癒しは、それ自体が神の憐れみであり、その方法は神の御心によるのです。

パウロはエパフロディトと共に過ごす中で、彼の病を経験し、激しく心が揺さぶられたことでしょう。このまま彼が命を落とすのではないかと思い、悲しみも体験しました。彼の回復を願い、神の憐れみを求めて祈ったと思います。私たちは悲しみの意味さえ深めながら、神に憐れみを求めて祈ることが大切です。悲しみを悲しみとして、また喜びの内にあるときはその喜びを受け入れながら、それを御心のままにお与えになる神への信頼が確かなものにされていくからです。主イエス・キリストは天上の喜びを携えて私たちのもとに来られたのですから、私たちは究極的には、いつもその喜びの中に置かれていることをも覚えて、主の憐れみを祈り求めて歩みたいと願います。