2022年04月10日「キリストの十字架は、あなたのために」
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キリストの十字架は、あなたのために
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章32節~56節
聖書の言葉
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
(45〜50節)マタイによる福音書 27章32節~56節
メッセージ
イエス様は十字架の上で死なれました。
鞭で打たれて血を流し、ゴルゴタまで連行され、手足を釘で打ちつけられてまた血を流し、十字架にはりつけにされた後、6時間後(※マルコ福音書には十字架につけられた時刻が9時だった記されています)に死なれました。
聖書はこれが「愛」だと語ります。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Iヨハネ4:10)
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」46節でイエス様はそう叫ばれます。書かれてありますように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉です。
イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。私たちはこの悲痛な叫びを、まず、ありのままに聞かなければならないと思います。
イエス様が十字架につけられた理由は、直接的にはユダヤ人の反感を買ったからです。イエス様はユダヤ人から憎まれてしまったので、死刑になるような罪を何も犯していないにもかかわらず、彼らに罪人として仕立て上げられてしまったのです。
けれどもただ人間の法によって、人間によって裁かれたというだけでは十字架の意味を言い表したことにはなりません。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この言葉の通り、イエス様は神様の裁きをお受けになったのでした。命の源であり、愛の源である神様から断絶させられたのです。
このとき、イエス様は罪人として、神様からの裁きを徹底的にお受けになったのです。ご自分の罪のためではありません。イエス様は罪を犯すことのないお方でした。そのイエス様が、ここまで徹底的に裁きをお受けになったのは、他の誰でもない、私たちの罪を、その身に引き受けられたということです。
神様は、正しいお方です。人間が犯す罪を、そのままにはしておかれません。これは本来、私たちが受けなければならない裁きでした。
神様の裁きを真正面から受けるなら、私たちは滅びるしかありません。神様は、これを御子イエス・キリストに負わせてくださったのです。私たちを愛しておられるゆえにです。
ここに、キリスト教の救いの独特な点があります。
救いには神様の裁きを避けて通ることができないのです。私たちのもつ罪は、神様によって裁かれなければならないのです。このことを通して神様との本当の和解が起こるからです。
愛するということは、甘やかすこととは違うのだと思います。私たちに好きなようにさせて、罪の問題を負わせたままに、滅びるままに捨て置くのではなくて、この罪深い私たちがその罪を贖われ、神様に立ち返って祝福の中で生きてほしいという、神様の御心こそが愛なのではないでしょうか。イエス様は、十字架の上で死なれたことによって、ご自身のためではなく、罪人である私たちのために、一切の罪を引き受けてくださったのです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)