2022年03月27日「和解しなさい」
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和解しなさい
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章21節~26節
聖書の言葉
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」マタイによる福音書 5章21節~26節
メッセージ
「殺してはならない」律法ではそう言われています。しかし殺さなかったからと言って、私たちが互いに敵意をもって、憎しみ合ったり、腹を立てているのであれば、それは律法が要求するものには程遠いものです。
それゆえ、イエス様は言われます。22節「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
イエス様がここで告げておられるのは、人の心の中に芽生える微(かす)かな殺人の兆しでさえ見ておられる神様の眼差しです。人を殺さなければそれで良いのか、「ばか」と言わなければ、「愚か者」と言わなければ、私たちは大丈夫なのか。そんな表面的なことを問題にしているのではないのです。私たちの心にあるわずかな怒りでさえ、神様は見ておられる。その神様の眼差しを問題にしているのです。イエス様は「殺すな」という言葉にある神様の御心は何かを問うているのです。
今回に限った話ではありませんが、イエス様のこうした教えを聞いた時「では、どこまでなら許されるのですか」と聞かれることがあります。「腹を立ててはならない」という今回の御言葉に関して言えば、「怒らなければいけないときもあるのではないですか」、「そこに憎しみがなければセーフなのですか」「悪に対する怒りだったら良いのですか」と私たちは問いたくなるのかもしれません。実際、どこまでを正しい怒りとし、どこからを罪とするのか。そういう議論が、これまでの教会になかったわけではありません。けれども、それを定めてしまうのもまた、結局のところ難しいことだと思います。
ですから、私たちはまず、神様の御心をそのまま受け止めることが大切です。「どこまでなら実現できるか」という自分の実現可能レベルで御言葉を考えるのではなくて、そのままこれを神様の御旨として、まずは聞くのです。
そのとき何が起きるのか。それは、前回も申し上げたことです。私たちは自分の罪を知るのです。「これくらいだったらできる」という自分の内側になるものが完全に打ち砕かれて、神様の御前にへりくだるしかなくなるのです。同時に、イエス様が十字架の上で成し遂げてくださった罪からの贖いが、どれほど大きなものであったのか、与えられた恵みの大きさをますます知るのです。
イエス様がお語りになることは、天の御国、つまり、神様が人を支配する本来のあり方です。終わりの日に、神様が実現してくださる神の国のあり方です。私たちの基準で照らして現実離れしているように思われるのは、その意味では当然と言えるかもしれません。でも、神様は私たちに、その御国に生きるようにと招かれました。人間本来の姿で、神様とともに、祝福された姿で、生きるようにとお招きになりました。私たちはその声に従って、聖霊の導きを求めつつ、和解の努めに励むのです。「殺してはならない」との戒めは、結局のところ、私たちに祝福に満ちた姿で「生きるように!」との神様の御心が、そこにあるのです。