2022年03月20日「律法を完成するために」
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律法を完成するために
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章17節~20節
聖書の言葉
17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」マタイによる福音書 5章17節~20節
メッセージ
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。イエス様はこのように言われます。「律法や預言者」と言われていますが、これは旧約聖書のことです。正確に言えば、旧約聖書は「律法」と「預言者」と「その他の書物」という3つの要素から成り立っています。ここでは特に「律法」に焦点があてられているわけですが、「律法」とは旧約の初めの5つの書物のことで(創・出・レビ・民・申命記)、これを「モーセ五書」とか「モーセの律法」とか言うことがあります。いちど通して読んでいただけたらわかると思いますが、「律法」の書物は、物語部分もありますが、中心にあるのは、掟としての「律法」です。
当時のユダヤ人たちの信仰の実践は、これらの律法の実践にかかっていました。彼らはこの律法に従って生きていました。例えば当時の礼拝の指針は、レビ記を見ると詳細に描かれていますが、当時の礼拝というものは牛や羊がそこらじゅうにいて、祭司たちがその動物を捌いていたわけです。その礼拝というのは、牛や羊が「モーモー、メーメー」言っていたことでしょう。でも、そうやって動物の血を流すことによって、神様の前に赦されて生きることが起こっていたわけで、この犠牲を通して、血を流して、神様の御前に生かされていることを、彼らは心から実感していたと思うのです。今の私たちは動物犠牲をやりませんが、しかしイエス・キリストという、ただ一度の、完全な犠牲を通して、十字架の血を流したことで神様の御前に生かされているということを、私たちは告げ知らされているわけで、実感しているはずで、その背後にある神様の御心は同じなのです。ですから本日は、律法が問題になっているわけですが、「律法なんて馴染みがない」と心を遠ざけるのではなくて、その律法を通して神様が私たちに何を告げ知らせようとしておられるのか。その御心を聴き取ろうとするのであれば、ここでイエス様が言っておられることが納得できるのではないか。そう思っています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。イエス様は、旧約聖書を廃止して、何か全く別の教えを語っているのではない。むしろ完成するために、律法が目指す目的を成就するために来たのだと言っておられるのです。
あるとき、ひとりの律法学者がイエス様を試そうとして、次のことを質問しました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。マタイ22章34節以下です。
それに対するイエス様の答えはこうでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:5)。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい(レビ記19:18)」。
律法が与えられているのは、私たちが本当に心から神様を愛し、隣人を愛することができるためです。私たちはその祝福に向かって、救われた感謝の応答として律法に従っていくのです。