天の国のさいわい(3)
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 5章1節~12節
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
(7-12節)マタイによる福音書 5章1節~12節
7節は「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」です。「その人たちは、憐れみを受ける」。誰からでしょうか。神様からです。そもそも私たちは誰もが、神様から憐れみを受けなければ生きていけない存在です。7節の「憐れみを受ける」は未来形ですが、イエス様のみもとに集まり、まことの神様と出会った人々は、神様の憐れみを既に知っています。「憐れみ深い」と言われた自分達もまた、神様からの憐れみを受けていることを知っているのです。しかも、そのような憐れみを受けるに値しない罪人であるにも関わらず、神様がその罪を赦してくださったという恵みの事実が、そこにあるわけです。私たち自身は、隣人に対して憐れみ深くできないと思っているかもしれません。けれども、神様の憐れみを、現にこうして味わっている一人のキリスト者として、キリストご自身が弱い私たちに手を差し伸べてくださったことに慰めと励ましを受けて、私たちもまた隣人の困難に手を差し伸べるのです。
8節は「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」です。「清い」というのは、混ざった物がない状態、雑音がない透明な状態のことです。ここでもやはり、単に道徳倫理として「心が清い」要するに潔白だと言っているのではなく、特に神様に向かう心の姿勢のことです。神様に対して混じり物がない、透明であるとは、端的に言うなら、まっすぐに向き合う、ということです。「まっすぐ向き合う」をもう少し言い換えるなら、「ひとつのことを思っている」ということです。思いが分裂して心が分かれている状態ではなくて、ひとつのことを思って、ひたすら神様を信じようとすることです。
9節は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」です。実は9節の「平和を実現する」という言葉は、聖書の中でもかなり珍しい単語が使われています。「平和を実現する」というのが、たった一単語で、端的に表現されているわけです。それは、何よりも、主イエスによる平和を受けた人々が、その平和を、自分を取り囲んでいる人々にもたらすものです。主イエスによる平和とは、父なる神様との和解です。つまり、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださり、神様との平和をもたらしてくださった。その神様との和解に基づいて、人と人との平和を回復していく、ということです。
神との和解は、人の争いの根源である罪を問題にしています。人の争いの根源は罪にあります。この世の悲惨は、罪の結果です。しかし、イエス様に出会い、神様と和解させていただいたキリスト者は、すべての争い・悲惨の根源を、癒す必要があると知っているはずなのです。
最後10節は「義のために迫害される人々は、幸いである」です。続けて11節を見ると、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」とあります。「義のために迫害される」が、11節で「わたし(つまり、イエス様)のために迫害される」と置き換えられています。義とはすなわちイエス様だということです。つまりイエス様のために、いわれのない非難を受け、悪口(わるぐち)を言われ、抑圧されることを言います。神様の御言葉をまっすぐに受け止めて、それを心に宿して生きるときに、苦しみながら忍耐をして、信仰を保たなければいけないときがある、と言うのです。
けれども、私たちは一人で耐え忍んでいるのではありません。使徒言行録で使徒パウロ(サウル)がキリストに出会って変えられる前、キリスト者を迫害したときのことを思い起こします。イエス様は言われました「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。つまりキリスト者の受ける迫害とは、イエス様が受ける迫害である。私たちが受ける迫害は、イエス様が同じ場所で背負ってくださる迫害だということです。
最後に。これまで何度も申していますように、イエス・キリストに招かれてみもとに集まる人たちは、主イエスに従うゆえに、これらの幸いな人とされています。その上で、きちんと心に留めておきたいことは、私たちには「既に」幸いな人とされていながら、「未だ」なお完成には至っていないということです。パウロ的に言うなら、目標を目指して走るということです。目指すべき目標があります。それは、主イエスが、栄光をもって再び来てくださるとき、再臨のときです。そのとき、いま私たちの中で始まっているキリストの救いが完成され、天の御国も栄光の内に完成に至ります。祝福を受けながら、まだ決して完璧ではない私たちですが、神様が成就してくださることに望みを置くことが許されています。神様が成し遂げてくださることに望みをつないでいきたいと思います。そういう歩みをする人は幸いであり、祝福が約束されています。