聖書の言葉 3心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。(3節〜6節)マタイによる福音書 5章1節~12節 メッセージ 3節から「幸いである」との言葉が続いています。これらの言葉はギリシャ語ではいずれも「幸いである」との言葉が初めに来て「幸いだなぁ!」と叫びかけるように言っているものだ、と、前回申しました。イエス様は、みもとに集まってくる人に、祝福をもって「あなたがたは幸いだ」と言っておられます。この祝福は、何かをしたら与えられるものではありません。3節で言えば、心が貧しくないと得られない祝福ではないのです。むしろ、私たちの上には、神様の側からの祝福がまずあります。主イエス・キリストに従って、天の御国に入るように勧められているのです。私たちは、その招きに応じてただ従っていけばよいのです。自分が何かをしなければ祝福が得られないのではなくて、神様の恵みを受け取るところに、祝福があるのです。 まず、3節で「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われています。ここで用いられている「貧しい」という言葉は、単に貧乏であるとか、人と比べて物を持っていない、という以上に、徹底的に何も持っていない状態を表します。ここには「心の」という制限がついています。ですから「心において」自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかない状態、つまり自分の内側には、依り頼むべきものが全くない状態です。 これは、私たちが救われるときのことを考えてみればよくわかります。私たちは、ただ神様の恵みによって救われるのです。そこに、私たち人間の努力は関係ありません。私たち自身には何もよいところがないのに、それなのに神様は私たちを愛してくださって、滅びるままにしておかれないで、救いに入れてくださるのです。その救いの恵みを受け取っているならば、私たちはいかなる意味でも自分を頼みとしないで、ただ神様をのみ頼みとしているはずなのです。 4節に「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは、慰められる」とあります。悲しいという感情を経験したことのない人は、おそらくいないでしょう。生きていると苦しみを経験し、悲しみを抱くことは誰にでも起こることです。しかし、ここで言われている悲しみは、ただの人間の悲しみではありません。救いを受けて、幸いであると言われている人の悲しみです。つまり、特に信仰生活の中で起こる悲しみのことを言っています。 とりわけ信仰者がもつ悲しみとは何でしょうか。それは、何よりも自分の罪を痛む悲しみです。私たちは今すでに、キリストにあって罪赦された者とされていますが、それゆえに、私たちは罪の重さと、その結果としてのこの世界の悲惨を知っています。罪の赦しのためにどれほど高い犠牲が払われたかを知っています。罪の赦しのために、御子イエス・キリストの十字架の死を必要としたのです。私たちは、罪赦されたと言われた今も、罪の赦しを喜びながら、それほどまでに高い代価を必要とした自らの罪を悲しまずにはいられないのではないでしょうか。 5節で、「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と言われています。柔和と聞くと、物腰の柔らかい様子を連想するかもしれませんが、聖書が語る柔和は、必ずしもそうではありません。へりくだった者、謙遜な者のことで、特に圧迫される、あるいは暴力に打たれても、力によって抵抗することをしない、あるいはできない無力にされた人々のことを言っています。マタイによる福音書では、「柔和」という言葉を非常に大切なところで用いています。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。 マタイ11章28節の御言葉ですが、主イエスはご自分のことを「柔和」であると言われました。ですから、「柔和な人」とは、まずイエス様を指します。荒れ野で悪魔の誘惑にあわれた主イエスのお姿に、十字架につけられながらも力による抵抗を試みない主イエスのお姿に、私たちは「柔和」とはどういうものであるかを見ることができます。力を誇ることなく、むしろ人の弱さを知り、受け入れ、他人には心低くして仕え、悪に煩わされないで神様に忠実に仕える姿。そのような人は「地を受け継ぐ」と言われるわけです。 そして6節は、「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」です。「義」とは「正義」と言いますように、正しさのことです。それも神の正しさです。神の正しさを求めてくる人、それも飢え渇くほどに求めてイエス様のみもとにやってくる人に幸いだと言っているのです。 「飢える」も「渇く」も極めて強い欲求を表す言葉です。私たちは何かを食べる物が得られなければ、飲む物が得られなければ、生命が脅かされます。それが得られなければ死んでしまうほどの危機意識をもって、正しさを求めるゆえに、「あなたがたは幸いだ」とイエス様は言っておられるのです。 私の好きな聖書の御言葉に、旧約の詩編42編があります。 「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」という言葉です。 「神よ、わたしの魂はあなたを求めて渇く」と言うわけです。キリスト者はよく、神様を求める、言葉にし難い思いを「飢え渇き」と表現します。今申し上げた詩編の作者はまさに神様に対する飢え渇きを歌っています。それは結局、何を求めているのか。直接には神の言葉に飢えていて、神の約束に渇いている。それは結局、神礼拝を求めているということです。神の言葉が与えられ、神を喜び賛美する、そういう礼拝生活を求めているのです。なぜなら、神様に捕らえられ、救われた人にとって、そうせずにはいられないことだからです。ということは、キリストに招かれて救われた人が、なおいっそう義に飢え渇くと言うのは、さほど不思議な表現ではないと思います。飢え渇くようにして、神様を求める。神様を礼拝することを求める。そうせずにはいられない。それは救われて幸いに置かれている人にとって、生命の中心だからです。 私たちは、キリストがお語りになった「幸い」の言葉を聞き取ることで、これらの幸いを、感謝をもって自覚して、心からの喜びと賛美をささげたいと願います。神様の恵み深い配慮によって、その祝福を味わう者とされています。
3節から「幸いである」との言葉が続いています。これらの言葉はギリシャ語ではいずれも「幸いである」との言葉が初めに来て「幸いだなぁ!」と叫びかけるように言っているものだ、と、前回申しました。イエス様は、みもとに集まってくる人に、祝福をもって「あなたがたは幸いだ」と言っておられます。この祝福は、何かをしたら与えられるものではありません。3節で言えば、心が貧しくないと得られない祝福ではないのです。むしろ、私たちの上には、神様の側からの祝福がまずあります。主イエス・キリストに従って、天の御国に入るように勧められているのです。私たちは、その招きに応じてただ従っていけばよいのです。自分が何かをしなければ祝福が得られないのではなくて、神様の恵みを受け取るところに、祝福があるのです。
まず、3節で「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われています。ここで用いられている「貧しい」という言葉は、単に貧乏であるとか、人と比べて物を持っていない、という以上に、徹底的に何も持っていない状態を表します。ここには「心の」という制限がついています。ですから「心において」自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかない状態、つまり自分の内側には、依り頼むべきものが全くない状態です。
これは、私たちが救われるときのことを考えてみればよくわかります。私たちは、ただ神様の恵みによって救われるのです。そこに、私たち人間の努力は関係ありません。私たち自身には何もよいところがないのに、それなのに神様は私たちを愛してくださって、滅びるままにしておかれないで、救いに入れてくださるのです。その救いの恵みを受け取っているならば、私たちはいかなる意味でも自分を頼みとしないで、ただ神様をのみ頼みとしているはずなのです。
4節に「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは、慰められる」とあります。悲しいという感情を経験したことのない人は、おそらくいないでしょう。生きていると苦しみを経験し、悲しみを抱くことは誰にでも起こることです。しかし、ここで言われている悲しみは、ただの人間の悲しみではありません。救いを受けて、幸いであると言われている人の悲しみです。つまり、特に信仰生活の中で起こる悲しみのことを言っています。
とりわけ信仰者がもつ悲しみとは何でしょうか。それは、何よりも自分の罪を痛む悲しみです。私たちは今すでに、キリストにあって罪赦された者とされていますが、それゆえに、私たちは罪の重さと、その結果としてのこの世界の悲惨を知っています。罪の赦しのためにどれほど高い犠牲が払われたかを知っています。罪の赦しのために、御子イエス・キリストの十字架の死を必要としたのです。私たちは、罪赦されたと言われた今も、罪の赦しを喜びながら、それほどまでに高い代価を必要とした自らの罪を悲しまずにはいられないのではないでしょうか。
5節で、「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と言われています。柔和と聞くと、物腰の柔らかい様子を連想するかもしれませんが、聖書が語る柔和は、必ずしもそうではありません。へりくだった者、謙遜な者のことで、特に圧迫される、あるいは暴力に打たれても、力によって抵抗することをしない、あるいはできない無力にされた人々のことを言っています。マタイによる福音書では、「柔和」という言葉を非常に大切なところで用いています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。
マタイ11章28節の御言葉ですが、主イエスはご自分のことを「柔和」であると言われました。ですから、「柔和な人」とは、まずイエス様を指します。荒れ野で悪魔の誘惑にあわれた主イエスのお姿に、十字架につけられながらも力による抵抗を試みない主イエスのお姿に、私たちは「柔和」とはどういうものであるかを見ることができます。力を誇ることなく、むしろ人の弱さを知り、受け入れ、他人には心低くして仕え、悪に煩わされないで神様に忠実に仕える姿。そのような人は「地を受け継ぐ」と言われるわけです。
そして6節は、「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」です。「義」とは「正義」と言いますように、正しさのことです。それも神の正しさです。神の正しさを求めてくる人、それも飢え渇くほどに求めてイエス様のみもとにやってくる人に幸いだと言っているのです。
「飢える」も「渇く」も極めて強い欲求を表す言葉です。私たちは何かを食べる物が得られなければ、飲む物が得られなければ、生命が脅かされます。それが得られなければ死んでしまうほどの危機意識をもって、正しさを求めるゆえに、「あなたがたは幸いだ」とイエス様は言っておられるのです。
私の好きな聖書の御言葉に、旧約の詩編42編があります。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」という言葉です。
「神よ、わたしの魂はあなたを求めて渇く」と言うわけです。キリスト者はよく、神様を求める、言葉にし難い思いを「飢え渇き」と表現します。今申し上げた詩編の作者はまさに神様に対する飢え渇きを歌っています。それは結局、何を求めているのか。直接には神の言葉に飢えていて、神の約束に渇いている。それは結局、神礼拝を求めているということです。神の言葉が与えられ、神を喜び賛美する、そういう礼拝生活を求めているのです。なぜなら、神様に捕らえられ、救われた人にとって、そうせずにはいられないことだからです。ということは、キリストに招かれて救われた人が、なおいっそう義に飢え渇くと言うのは、さほど不思議な表現ではないと思います。飢え渇くようにして、神様を求める。神様を礼拝することを求める。そうせずにはいられない。それは救われて幸いに置かれている人にとって、生命の中心だからです。
私たちは、キリストがお語りになった「幸い」の言葉を聞き取ることで、これらの幸いを、感謝をもって自覚して、心からの喜びと賛美をささげたいと願います。神様の恵み深い配慮によって、その祝福を味わう者とされています。