2022年02月13日「天の国のさいわい(1)」
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天の国のさいわい(1)
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- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
聖書の言葉
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
3節から10節で「幸いである」という言葉が、繰り返されていきます。新約聖書の中でもこれほどまで「幸い」という言葉を繰り返し語る箇所は他に類を見ません。ここでイエス様がお語りになる「幸い」とはいったい何なのでしょうか。どういう状態を指して「人は幸いだ」と言っておられるのでしょうか。
私たちが素朴に「幸福」「幸せ」を語るとき、人によって色々なことを言うだろうと思います。生活が安定するときに幸せを感じる、経済的に満たされたときに幸せを感じる、健康であるとき、家族や友人に恵まれているときに幸せを感じる、様々です。ただ、こうしたことは結局のところ、本人が幸せを感じていなければ、意味を成さないことでもあります。
では、幸福とは気の持ちようによって決まるのでしょうか。「幸福であるために、みんな努めて現状に満足しましょう」と言っておしまいでしょうか。それではキリストの言う「幸い」を聞き取ったことにはならないのです。「幸福、幸い」を私たちの主観で語るのは不十分なのです。
3節を例に挙げるなら、イエス様はここで、心の貧しい人が、やがて幸いを得るのだと言っておられるのではありません。幸いを得るために、心貧しくありなさいと言っておられるのでもありません。「そういう風に心を持ちなさい」と言っておられるのではないのです。「あなたがたは、現に幸いなのだ」と、既に幸いに置かれている客観的な事実を指摘しておられるのです。
そもそも、罪の故に神様を離れてしまったこの世界には、もはやどこにも「幸い」など無いはずでありました。人は、神様と共に生きるように、神様によって創造されました。ですから人間本来の幸福とは神様との交わりの中にあったのです。その幸いと喜びを携えて降ってこられたのがイエス・キリストです。ですから、そのイエス様を見つめて、神様との関係の中に再び生きること、そこに本当の幸せがあります。なぜならば、それが人間の本来の姿だからです。
それゆえ、イエス様に従って歩む人は事実として幸福な歩みを始めています。自覚しているか否かに関わらず、神様の側がその人を顧みてくださって、恵みを注いでくださるという客観的な事実がそこにあるからです。いつでも問題なのは、神様が、どういう御心をもって、私たちに臨んでおられるかということです。
イエス様は、みもとに集まってくる人に、祝福をもって「あなたがたは幸いだ」と言っておられます。「私についてくる人は幸いなのだ!」…この、主の御言葉を、私たちが真剣に聴き取るかどうかが問われています。
ここに記されている「幸い」は、私たちが普通考える幸福とは大きく違います。幸いは私たちの主観で決まるのではなく、神様が恵みをくださっているという客観的事実に基づくのです。私たちはまず、幸いを本当にもたらしてくださった主イエス・キリストを見つめて、その喜びをいただく者とされたいと願います。これらはキリスト抜きの幸いではなく、キリストによって与えられる幸いだからです。その上で、3節からの祝福のリストを、次週、もう少しじっくりと味わっていきたいと願います。