2022年02月06日「わたしについて来なさい」

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わたしについて来なさい

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章18節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。 25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。マタイによる福音書 4章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

イエス様の最初の弟子となったのは、シモン・ペトロとその兄弟アンデレでした。彼らはまさに先日の箇所で「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民」と言われる人たちでした。権力や、財力があるわけではありません。学問に長けていたわけでもないでしょう。彼らはただ漁師として、ガリラヤの田舎で、日々の仕事に打ち込んでいる真最中に、「わたしについて来なさい」との招きの声を聞いたのです。このように、キリスト者になるには、信仰以前に何らかの教養や、身分が要求されることはありません。どんな人でも、どんなに暗いところにいる人でも、ただ主に招かれて、従うときにイエス様はその人をご自分の弟子とされます。

当時のユダヤ教では、ふつう弟子がラビ(教師)を選ぶものでした。優れたラビを自分で選んで、教えてもらうことが神様に近づく道でした。けれどもイエス様の場合は逆でした。イエス様が弟子を選び、ご自分の働きのためにお用いになるのです。「わたしについて来なさい」と招かれて、「二人はすぐに網を捨てて従った」。これが、キリスト者になるということです。

イエス様の「わたしについて来なさい」との招きには「人間をとる漁師にしよう」との約束が伴っていました。「人間をとる」がどういうことか。後にイエス様はペトロとアンデレを含む12人の弟子を選び、人々のところへ派遣されました。そのときにイエス様は「イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と言っておられます。つまり、神様を離れてしまった羊のところへ遣わして、イスラエルの滅びた羊を神様のところへ連れ戻す、そのような働きに彼らを就かせるのです。

このようにイエス様はペトロたちを初めとして、従う人々を主の弟子とされました。「わたしについて来なさい」との言葉には「人間をとる漁師にしよう」という言葉が続きます。イエス様を信じてキリスト者とされた人たちは、自分が救われてそれでおしまい、ではありません。そこには「人間をとる漁師にしよう」との言葉が伴います。それは、神様がイエス・キリストを通して実現させてくださる救いの御業に、私たちもまた参加させていただく、ということです。私たちは神様の同労者として、キリストの同労者として、キリストに従って福音宣教に励みます。そこには苦労がありますが、同時にそれまでの日常生活にはなかった喜びがあります。それは、神様が、人をとって救いに入れてくださる喜びであり、その御業のために私たちを用いてくださるという喜びです。

 何よりもイエス様ご自身が、救いの御業のためにガリラヤ中を駆けずり回って、人々に寄り添ってくださったように、私たちもまた、キリストに倣って、あらゆる人々に寄り添い、キリストの証を立てることができるよう、思いを新たにしたいと願います。わたしたちが、キリストに従ってその働きに参与するとき、神様は豊かな喜びを得させてくださいます。